◎野村和則(会社員、茨城県)
野村さんが働く研究機関では、アメリカやイギリス、そしてドイツやフランスとのやりとりがあった。仕事で海外に行くことがあるとは知っていたが、野村さんはフランスには特に興味もなく、自分がフランスに行くとは考えたこともなかった。
きっかけは徐々に訪れた。1994年と1997年の二度にわたり、研究機関ではフランス人研究者を受け入れることになり、その世話役を務めることになった。受け入れる前までは、フランス人に対してよいイメージがなかったが、年齢が近かった彼らとはすぐに仲良くなり、仕事でもプライベートでもつきあっているうちに印象が変わってきた。一人目のフランス人研究者がフランスに戻ってしばらくたったころ、フランス出張を命じられた。すぐに「喜んで行かせていただきます」と答えた。出張は原則単身だったが、生まれたばかりの一歳になる長男と妻と三人で行くことにし、1997年3月からアヴィニョンで一年間暮らすことになった。
フランス人の仕事ぶりは新鮮だった。フランス人の仕事のやりかたで学んできたのは、常に自分がやっていることをまとめること。フランス人は報告を求められると、すぐに答えることができた。以来、日本に戻っても、メモを書いたり、頭の中で自分の作業をまとめるようになった。
仕事以外でもフランスの滞在で影響されたことがある。フランスで生活するまでは、普通の日本人のサラリーマンのように、自分で設計して作る新築のマイホームを持つ夢があったが、フランスではいろんなタイプの家を自分たちが使いやすいように工夫して暮らしているのを見た。「先人が工夫を凝らした家の土台があって、その中を自分たちが生活しやすいように改善する楽しさがある」とわかった。帰国時には新築のマイホームのこだわりはなくなっていた。実際、帰国後10年ほどたって、前の家主の工夫がよくいきわたっている住宅を購入し、少しずつ自分たちの生活に合った改善を加えて楽しんでいる。
また、フランスでは人の家に招かれると、どこの家でも家中をくまなく案内してくれた。フランスではそうするのかと、自分たちの家に招くときもそのようにしていたら、それも癖になった。いまでも、人を食事に招くと、まず全ての部屋を見てもらう。こんな所までという場所も案内する。
滞在中はフランス語で苦労したこともあったが、小さな息子が一緒だったことや、南仏だったことがあるかもしれないが、どこでも親切にしてもらった。「実はスペインやイタリアとかわらないラテン系、明るくて、子どもっぽいところもあって、やさしい人ばかり」だった。帰国直前に同僚たちがサプライズで奥さんの誕生日を祝ってくれたことは一番印象に残っている。
野村さんの場合、わずか一年のフランス滞在だったが、フランスとフランス人に対する印象は180度変わった。「今では一番好きな国と人たち」だ。(樫)
フランス人の仕事ぶりは新鮮だった。フランス人の仕事のやりかたで学んできたのは、常に自分がやっていることをまとめること。フランス人は報告を求められると、すぐに答えることができた。以来、日本に戻っても、メモを書いたり、頭の中で自分の作業をまとめるようになった。
仕事以外でもフランスの滞在で影響されたことがある。フランスで生活するまでは、普通の日本人のサラリーマンのように、自分で設計して作る新築のマイホームを持つ夢があったが、フランスではいろんなタイプの家を自分たちが使いやすいように工夫して暮らしているのを見た。「先人が工夫を凝らした家の土台があって、その中を自分たちが生活しやすいように改善する楽しさがある」とわかった。帰国時には新築のマイホームのこだわりはなくなっていた。実際、帰国後10年ほどたって、前の家主の工夫がよくいきわたっている住宅を購入し、少しずつ自分たちの生活に合った改善を加えて楽しんでいる。
また、フランスでは人の家に招かれると、どこの家でも家中をくまなく案内してくれた。フランスではそうするのかと、自分たちの家に招くときもそのようにしていたら、それも癖になった。いまでも、人を食事に招くと、まず全ての部屋を見てもらう。こんな所までという場所も案内する。
滞在中はフランス語で苦労したこともあったが、小さな息子が一緒だったことや、南仏だったことがあるかもしれないが、どこでも親切にしてもらった。「実はスペインやイタリアとかわらないラテン系、明るくて、子どもっぽいところもあって、やさしい人ばかり」だった。帰国直前に同僚たちがサプライズで奥さんの誕生日を祝ってくれたことは一番印象に残っている。
野村さんの場合、わずか一年のフランス滞在だったが、フランスとフランス人に対する印象は180度変わった。「今では一番好きな国と人たち」だ。(樫)
Une image de la France redorée NOMURA Kazunori, Salarié, Ibakaki
Travaillant dans un laboratoire qui entretenait des échanges avec les Etats-Unis, l’Angleterre, l’Allemagne et la France, Kazunori s’attendait bien à être un jour envoyé en mission à l’étranger. Mais il ne s’imaginait pas que ce serait lui qui se rendrait en France, d’autant plus que, pour lui, la France n’était qu’un pays parmi d’autres.
En 1994 et 1997, deux Français étaient venus travailler dans son laboratoire et c’est lui qui a été chargé de les assister. En tissant avec eux des liens aussi bien dans le travail que dans la vie privée, ce fut l’occasion pour lui se refaire une image des Français qui, au premier abord, n’était pas très positive. Le jour où on lui a confié une mission d’un an à Avignon, c’est sans hésiter qu’il est parti avec sa femme et son enfant d’à peine un an.
Pendant ce séjour, peut-être parce qu’il était avec un enfant de bas âge et qu’ils étaient dans le Sud, il a pu juger de la gentillesse de tout le monde. Ce qui l’a le plus marqué, ce fut lors de l’anniversaire de sa femme, préparé en cachette par ses collègues français, juste avant leur retour au Japon. Après un an de séjour, il garde un très bon souvenir de ce pays et de ces gens qu’il apprécie, à présent, énormément.
Pendant ce séjour, peut-être parce qu’il était avec un enfant de bas âge et qu’ils étaient dans le Sud, il a pu juger de la gentillesse de tout le monde. Ce qui l’a le plus marqué, ce fut lors de l’anniversaire de sa femme, préparé en cachette par ses collègues français, juste avant leur retour au Japon. Après un an de séjour, il garde un très bon souvenir de ce pays et de ces gens qu’il apprécie, à présent, énormément.