モンパルナスが絢爛の華やかさにみちた20世紀前半、芸術家や知識人の溜り場で、パリのカフェ文化を生みだしたクーポール。ここで給仕長を務めるジョルジュさんは、長髪に真っ白なスーツでキメた、いかにも時代がかった風情を漂わせる人である。 1955年、リスボンに生まれた。父は、フランス軍曹でゴーリスト(ドゴール派)、第二次大戦中にはレジスタンスに加わってナチスの拷問にもあっている。ポルトガルの貴族の末裔の母は、共産党員でモデルだった。両親の政治的理由から、16歳の時にフランスへ移住。当時、共産党員の集まるパリ北郊外のセーヌ・サンドニ県へたどりつき、高校に通い始めたが「そこには思いがけない世界が待っていた。ポルト野郎と罵られ、屈辱的な日々だった」。すぐに学業をドロップアウト。1年近くヒッピーの生活を続け、サンラザール駅前のホテルにドアマンの職をみつけた。「それ以来、レストラン業界のあらゆる仕事を経験したよ。ピッツェリアを開店した時は、イタリア人のフリをする必要があったから、短期間でイタリア語もマスターしたしね」。ポルトガル、イタリア、スペイン、フランス、英語の5カ国語を自在に操るジョルジュさんが、クーポールにやってきたのは1990年だ。 多くのパリっ子と同様、自分の生活圏の河岸から、セーヌ川をまたぐのは億劫な方だったが…、「この地区に足を踏み入れた途端、故郷に戻ったような錯覚に陥ってしまったんだ。まるで、生まれ育ったリスボンの芸術村を思わせる空気が流れていたんだよ」と一目惚れ。店主からも、「モンパルナスの雰囲気そのもの、店のイメージにぴったりな人物」と、給仕長に抜擢された。 しかし残念なことに、現在モンパルナスの古き良き面影は、ほとんど失われたのも事実。「70年代にモンパルナスタワーが現れて以来、モンパルナスには “la Crise contre l’esprit(エスプリの大恐慌)”がやってきた」と嘆く。「ここには、最近あやうくなりつつある『フランスは寛容な国』というノスタルジーがある。隣国で独裁政権がはびこっていたころ、多くの亡命してきた芸術家や政治家たちを受け入れた場所だから」。そして「不思議なことに、芸術家の集まる地区には、必ずといっていいほど墓地が存在するんだよ」とも言う。給仕長のかたわら、歴史的建造物の研究家として、二足のわらじを履くジョルジュさんの願いは一つ。生々しい個人的な記憶をもとに、歴史が生んだ事実を、次の世代に伝えていくこと。(咲) |
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●rue Campagne Première 多くの芸術家が伝説を残したカンパーニュ・プルミエール通り。11番地は『勝手にしやがれ』でベルモンドが撃たれたラストシーンで有名だ。ここは、「大きく変貌したけど、同時に変わらないモンパルナスの象徴」とジョルジュさん。アール・ヌーヴォーの圧倒的なファサードの美しさが目をひく31bis番地にはマン・レイのアトリエが、隣にはエリック・サティ、ルイ・アラゴン、キスリング、そしてキキが泊まったホテル・イストリアが、23番地にはフジタが暮らしたアパートがある。 M。Raspail |
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