9月10日にナンシー市で起きた一つの事件が、パリジャン紙をはじめとしたメディアやインターネットの上で物議をかもしている。市の中心部の公園のベンチで携帯電話を見ていた障害者の女性を、15歳の少女たち4人が取り囲んで罵声(ばせい)を浴びせ、平手打ちを見舞ったというものである。
身体的、社会的に弱い立場にあるものに対する無神経、陰湿さに我々は義憤を覚える。しかし、今この瞬間も、世界のいたるところで起こっているにちがいない同様の事件の中で、この一件だけが突出して取り沙汰されたのは、犯人たちが見せたもう一つの残忍さによる。
彼女たちは事件の一部始終をビデオに収めた後、ネット上のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)で配信したというのだ。思春期の若者にありがちな、自分を「ワルく」見せることがカッコイイという思い込みがあったのかもしれない。だが「人の口には戸はたてられぬ」という諺(ことわざ)にあるとおり、SNSにも戸は立てられず、彼女たちの映像はモザイクで顔を隠すといった処理もされぬまま、瞬く間にネットの世界に広まり、12万回も閲覧されたという。そして、ついには「動かぬ証拠」として警察の知るところとなり、少女らは事件から9日後に逮捕された。
今回の事件の残虐性は、犯罪行為自体だけでなく、事件後も被害者がバーチャルな世界で何万回も罵倒(ばとう)され、殴られ続けられなくてはならないという現実にある。だが、犯人の意識の未熟さを笑うことはできない。
地球の反対側に住む見知らぬ人と何時間もチャットやゲームを楽しむ若者が、実は何カ月も自室から出てこない「引きこもり」だ、などという話はもはや珍しくもなくなった。ペンを片手に日記をつけたり、手紙を書くといった行為が廃れていく一方で、SNSでは無数の個人のおびただしい数の写真やコメントが日々更新されていく。結婚や出産といった人生の一大事から、レストランで美味しいものを食べたといったささいなことまで、ネット上に「報告」しなくては気がすまない人たちは多い。しかし、ボタンを一つ押すことで、一体どういった事態が生ずるか予測ができない。知らぬ間に加害者になっていた、などという状況もありうるのだ。
従来の「公」と「私」、「マクロ」と「ミクロ」のバランスが崩れた社会に我々は生きている。あたかも右目には顕微鏡、左目には天体望遠鏡のレンズという、いびつなメガネをあてがわれて生きているようなものだ。(浩)