よむたび。〈25〉ヨーロッパ〜アフリカ〜カリブ海

『 時が経つのも忘れて(仮題) 』
Nous n’avons pas vu passer les jours

シモーヌ・シュヴァルツ=バルト著
Éditions Grasset刊

 

ある作家の誕生と消失。

1959年、権威ある文学賞ゴンクール賞が、ある無名の工場労働者に与えられた。名はアンドレ・シュヴァルツ=バルト。31歳、ポーランド出身のユダヤ人は、大戦中に14歳でレジスタンスへと身を投じ、両親と二人の兄弟をナチスの絶滅収容所で失った。彼の小説『最後の義人Le Dernier des justes』は、中世から現代まで続くヨーロッパの反ユダヤ主義の系譜とレヴィ一族の受難の歴史をたどった作品だ。物語は12世紀に英国で起きたユダヤ人虐殺から始まり、「最後の義人」エルニ・レヴィがアウシュヴィッツの強制収容所へ移送されて幕を閉じる。「ショアー〔ユダヤ人絶滅のヘブライ語呼称〕文学におけるフランス初のベストセラー」と言われるこの作品は様々な言語に翻訳され、作者は一躍、時の人となる。

とはいえ、驚くべきはここからだ。アンドレは、二作目、三作目を発表するも全く評価されず、妻シモーヌとともにヨーロッパを離れ、彼女の出身地グアドループへと移住する。次作が発表されたのは、なんと…47年後のことだった。2009年、彼が亡くなって3年が経っていた。いったい何が、彼を沈黙させたのか?この謎を解き明かす貴重な証言、それがこの本だ。

歴史を語る資格?

彼ほど、著名で、かつ理解されなかった作家も珍しい。作品は論争の的となった。『最後の義人』は賞賛と同時に激しい批判も浴びたのである。ある人は他作品からの「盗用」を、ある人は歴史的事実の誤謬あるいはユダヤ教の不理解を糾弾した。批判は彼の同胞であるユダヤ人たちからも起きた。彼はユダヤ人の記憶を代表するのに相応しくない、というように。

シモーヌとの連名で発表した二作目『青バナナと豚肉の料理』も同様だ。読者はこの小説が本当は彼のパートナーによって全て書かれたのではないかと疑った。三作目『ムラート〔白人と黒人の混血児〕のソリチュード』にいたっては、「アンティーユ諸島の人によって書かれるべきであった」とまで言われた。この二作はいずれも黒人奴隷貿易の歴史に関する物語で、人びとは白人のユダヤ人がその歴史を語るに相応しくないと考えたのだ。

アンドレがこれらを書いた背景には、彼がパリで出会ったアンティーユ諸島の人々との友情があった。様々な国籍の人々が集うなか、彼が最も親しみを感じたのが彼らだった。それは彼らが背負う歴史に、ユダヤ人に起きた受難と共鳴するものを見出したからだ。この世界で圧倒的な規模で抑圧された人々として。だがその想いは当時、ほとんど理解されなかった。

最大の理解者。

けれども、世界の片隅に引っ込みながら、アンドレは書くのを止めてはいなかった。ただ不理解に失望し、あえて出版しなかったのだ。現在、その遺稿を読めるのはシモーヌの尽力あってこそである。彼女は夫の死後、三つの小説を世に出した。

実際、アンドレの人生に起きた最大の奇跡は、シモーヌに出会ったことだ。59年5月、メトロのカルディナル・ルモワーヌ駅前で偶然出会った二人は、互いに相手が生涯のパートナーとなることを予感したという。遺稿を整理する作業を回想しながら書くシモーヌの言葉には、彼女の深い愛が読み取れる。

「この文章たちに取り組みながら、私は毎日、アンドレが、私の横に静かに座って、そこにいると感じていた。再び、私たちは一緒にいたのだ。始まりのときのように。私たちが何時間も話したあのカルティエ・ラタンのカフェの中にいるように。全ては続いていた。再び、私たちは時が経つのも忘れていた。再び、私は笑い、子供たちに私たちの歴史を語ることができた」。誰からも理解されなくとも、この最大の理解者さえいればアンドレには十分だったのかもしれない。そう思わせるほど、彼女の言葉からは二人の強い絆が感じられるのだ。(須)

 

[著者]

シモーヌ・シュヴァルツ=バルト

1938年、グアドループ出身の両親のもと仏南西部の都市サントに生まれる。3歳でグアドループへ移り、ポワント・ア・ピートル、パリ、ダカールで学ぶ。寡作だが作品はどれも高く評価されている。


 

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