—アウシュヴィッツ編—
悪い癖だとわかっているが、日本人の知り合いに会うと、どうしても親父ギャグを連発してしまう。先日もある店員さんに「よくそんなに出る」と苦笑された。営業妨害になるといけないから今後は自制することにするが、母国語の冗談は、時として万金にも代え難いものになることもある。
事実、人類は20世紀を通じてそのような境遇を経験した。先月27日に解放70周年を迎えたアウシュビッツ強制収容所に代表される〈ホロコースト〉を生き延びた者たちは、母国語ユーモアが心の最後の命綱となったことを証言している。
当時、東欧各地のゲットーや収容所には、ドイツ国内だけでなく、欧州各地のユダヤ人や政治犯、同性愛者やロマ人たちが移送され、多言語のカオスを形成していた。 言葉の通じない外国人と同じバラックに入れられ、作業班を組まされ、看守にはドイツ語でまくし立てられる。飢えや寒さ、ナチスの残忍性による死の恐怖に加えて、言葉の壁が、被収容者たちを絶望させたことはいうまでもない。肉体的にも精神的にも追い込まれて発狂し、電流の走る有刺鉄線に身を投げ、命を絶った者もいる。 気を紛らわせようにも、薄い囚人服と粗末な寝床しか与えられなかった彼らには道具すらない。
アウシュビッツを経験したイタリアの作家プリモ・レービは『これが人間であるならば』の中で、「収容所を生きのびたのは、筋骨隆々たる若者ではなく、意外にも1本の木の小さな変化を喜びとする老人だった」と語っている。彼自身も、アルザスから移送されてきたジャンという青年にイタリア語を教えることを楽しみにしていた。ある日、食事の配給を取りにいく道すがら、彼はジャンにダンテの『神曲』を暗唱して聞かせる。だが、詩の続きがなかなか思い出せず、七転八倒する。お互い明日は死んでしまうかもしれない、だから、どうしても今、麗しい母国語を聞かせてあげたい、そんな焦りに駆られたのだ。
「言語を絶する」という表現があるが、そうした状況を人間としての尊厳を失うことなく生き抜くためには、「言語を絶やすことなく」、むしろそれを楽しみとして生きることが肝心だったのだ。
こうした逸話は、同じ収容所にいたオーストリアの心理学者ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』にもみられる。彼は作業班の仲間内で笑い話をひとつ考えることを日課にしていた。だから、こうも言っている。 「ユーモアは自分を見失わないための魂の武器だ。(中略)ほんの数秒間でも周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ」と。 その「魂の武器」も、たとえ人間に「そなわっている」とはいえ、日々の訓練なくしては鈍ってしまう。 母国語も日常使うことがないと 忘れてしまう。 そう考えれば、たとえくだらない親父ギャクでもおろそかにはできない。これは言い逃れでもハッタリでもない。(浩)