今から2年前の11月、アミアン高裁で52歳のドニという電気技師に禁固5年(うち3年は執行猶予付き)が下った。罪状は自分の二人の娘(裁判当時31歳と29歳)に対する強姦(ごうかん)罪だった。だが彼女らには被害者という意識がなく、むしろ自分たちの関係が「ごく自然な恋愛」であるとして、父親をかばうそぶりさえみせたという。長女ヴィルジニーには11歳になる息子がいた。ドニとの間にできた子供である。娘たちの母親であるドニの妻も父娘の関係を黙認するどころか、むしろそれを助長するような態度をとり、父親とともに有罪の判決を受けている。パリジャン紙に掲載されたヴィルジニーとドニのツーショット写真はいかにも幸せそうに見える。彼らは「合意の上での近親相姦」という、いわば常軌を逸した生活を営んでいた。
それから約2年後、こうした倒錯した幸せに悲劇的な結末がおとずれた。
ヴィルジニーは、家にカメラを取り付けて自分の留守中の家族の行動をこと細かく監視するなど、新興宗教の「グル」のような強権的な父の存在に耐えきれなくなり、息子を残して家を出る。そしてウール県ジゾール市で自動車整備工として自活を始める。父であり恋人であり、彼女の子供の父親でもあるドニにとって、これは許しがたい裏切りだった。今年の9月7日夜、娘の元を訪れた彼は、ピストルで彼女のこめかみを撃ち、その場に居合わせた同僚の33歳の整備工を彼女の恋人と思いこみ、嫉妬(しっと)心から殺してしまう。姉であり母でもある女性を失い、父であり祖父でもある男が逮捕された今、13歳になる息子だけが残された。
だがこの事件を、変質者の父親による猟奇事件というだけで片づけてしまっていいのだろうか?
家族が仲むつまじいことは、いつの時代でも尊重されてきた。クリスマスも近くなれば、ごちそうやプレゼントを囲むステレオタイプな家族像をいやというほどテレビコマーシャルなどで見せつけられる。
第2次大戦後、先進諸国では両親と子供だけを単位とした核家族化が大いに進んだ。それまでの「イエ」に比べて、この小さな共同体はより人間的な結びつきを可能にしたが、その一方で「子離れ」ができない親たちや、自分の子供のために学校に無理難題を押しつける「モンスターペアレント」、極端に相互依存して親子の区別がつかない「一卵性母娘」など、いびつな現象を生み出してきた。今回の事件もこうした文脈の上にあるように思えてならない。(浩)