任侠の家に生まれるも、血筋と伝統を尊ぶ古典芸能の世界に導かれ、身も心も芸に捧げる歌舞伎役者の数奇な一代記。オペラを見るような3時間の波瀾万丈かつ濃密なドラマだ。実写映画として22年ぶりに日本の邦画興行収入の記録を更新し、米アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表作品にも選出。話題が絶えない映画『国宝』が、フランスで12月24日から劇場公開に。仏最大の日本映画の祭典キノタヨ現代日本映画祭に参加の合間に、多忙な日々を送る李相日監督に話を伺った。

—–『国宝』は記録的なヒットとなりました。劇中では主人公の歌舞伎役者である喜久雄が、最後にようやく見えた「景色」がありますが、監督も今、ようやく見える景色はありますか。
「雨のパリ」じゃないですか(笑)。(筆者注: インタビュー当日は雨模様だった)おかげ様でいろんな場所に呼んでいただき、日本でじっくりと「興行収入が一位」というのを実感できる暇が、あまりありません。それでいいのでは、と思っていますけど。
後からじわじわくるのかもしれないですね。そうでしょうね。もちろん非常に喜ばしいし、多分とてつもないことだと思うのですが、そのことが目的で始めたことではないので。目的以上の場所にこの作品が到達した現状を実感するには、もう少し時間がかかる気がします。
—–5月にカンヌ映画祭の監督週間でお披露目され、6月に日本公開、 その後は韓国やカナダ、アメリカと世界ツアーに参加されている最中です。様々な国で上映されましたが、反応の違いは感じましたか。
根本的な反応はおおむね共通しています。ひと言目に出てくる感想としては、「美しさ」についての言及でした。
—–『国宝』は観る人によって響くポイントが多々あると感じました。監督からご覧になって、2025年を生きる観客の心のどの辺りに、特に響いたと分析されますか。
ひとつには歌舞伎が日本の伝統芸能の中心に位置しているにも関わらず、実はよく知られていないということがあります。特に若い世代になればなるほど、じっくりと歌舞伎を見たことのない人の方が、実質的には多かったわけです。あるいは、芸能ニュース的に「歌舞伎俳優の息子さん、お孫さん」などと、ちょっと違ったまとめ方で捉えられていた面もあります。今回、歌舞伎の内情や俳優たちの生き方、舞台に立つまでの世界観というものが、非常に新鮮に映ったのではと思いました。
それとやはり、世界でも言われてきた「美しさ」でしょうか。実生活で不安や混沌を感じながら生活する中でも、人は根源的には美しいものを求めるし、欲しているということではないでしょうか。そういったある種の陶酔や没入のようなものを、美しさの中に求めていたことが、今回は映画として深くはまった気がしています。
—–窓から差し込む一筋の光からも、映画スタッフの職人技を感じさせ、映像に厚みを感じました。 また、俳優さんも練習時間をしっかり取って撮影に臨まれたと聞いています。映画作りへのこだわりが、画面の細部から感じられる贅沢感を味わいました。このような映画作りは、日本映画界への一つの提言にもなり得ると感じましたが。
日本映画界全体についてではなく、自分のことだけをお話します。『国宝』に限らず、今まで作った映画でも、それは自分が映画を志してから目指してきたひとつの形だと思うのですよね。「スクリーンをどれだけ意識して、映像を作るのか」ということです。パソコンやテレビの画面サイズではなく、スクリーンに写るということは、「観客が見る」というよりは、「観客が(そこに)いる」という感覚に近づいていくことだと思うのです。観客がいる空間に嘘を入り込ませず、そこに現実感が感じられることを追求していかないと、映像の厚みには届かないと考えています。もちろん予算的な問題もありますが、「どこを目指すのか」を見失わないということが、一番大事なことかもしれないですね。
—–「吉沢亮さんありきの企画」とのことですが、なぜ吉沢さんにお願いしたいと思われたのですか。
彼は「国宝級イケメン」と言われてまして(笑)、単純に「顔が綺麗」ってことで(話を)収めたくはないのですが、顔が美しいことによって、表情が読み取れないのですよ。では、表情が読み取れなくてつまらない人に見えるかというと、そうではなく、内面が簡単にわからないからこそ知りたくなる。(表情の先に)大いなる空間が広がっているように見えるという魅力を、彼に感じていました。その外面と内面のアンビバレンツな特質は、(吉沢扮する)喜久雄には絶対にないといけない性質です。それは彼にしか感じ取れないものだったので、彼が演じるべきだと思いました。
—–吉沢さんの演技者としての魅力と才能を、監督と共に引き出した撮影監督が、フランスで活躍するチュニジア人のソフィアン・エル・ファニさんでした。彼とのコラボレーションは狙い通りでしたか。
思った以上でした。僕は『国宝』の前に、Apple TVの『Pachinko パチンコ』というドラマでソフィアンと出会いました。その時は台詞が日本語・韓国語・英語という複雑なドラマ。当然、彼は日本語も韓国もわかりませんが、言語を苦にしている印象は全くありませんでした。彼に「平気なの?」って聞いたら、「台本で台詞を読んでいるから」とシンプルな答えが返って来ました(笑)。 彼は俳優の呼吸や温度感を非常に的確に捉えることができる人なので、日本語による日本映画の『国宝』でも、心配は感じませんでした。 (ソフィアンさんが撮ったアブデラティフ・ケシシュ監督の) 『アデル、ブルーは熱い色』もそうですが、彼は俳優のアップを撮りながら、その眼差しの奥にある内面を捉えるのに非常に長けているので、そういった部分が効果的に発揮されたと思いますね。また、歌舞伎に対する先入観がない彼には、別の文化圏の人の立場で、新しく歌舞伎の美しさを発見してもらいたかったのです。
—–歌舞伎文化はもちろん、雪や桜など四季を感じる自然まで美しく撮られていました。ソフィアンさんはチュニジアの方ですが、李監督も韓国にルーツをお持ちです。外国にルーツを持つ方が日本文化にリスペクトを抱き、日本文化の決定版のような作品を作ったのは素晴らしいと思いました。今回、日本文化に取り組んだことに対する特別な意識はありましたか。
僕とソフィアンは同列には語れないと思っています。僕の場合はたしかにルーツは韓国ですけど、言うなれば「育ての親」は完全に日本であり、日本の文化の中で自分のセンスというものを培ってきました。目に触れたもの、影響を受けたものは日本人と全く変わりがないのです。日常で血筋を意識することもなければ、歌舞伎を題材にするということに対する抵抗感は全くないんですよね。むしろ、歌舞伎に敬意がある分、その長い伝統や格式を、映画でどれだけ損なわずに作れるかという重圧や責任感は感じました。
ソフィアンはまた別で、「歌舞伎だからこうしなければ」ということが、 異なる文化的美意識を備えていることによって、フィルターがかからないのが良かったと思うのです。「伝統だから」「ルールだから」ということではなくて、もっと自由に、「何が美しくて、何が魅力的なのか」を、自由に捕まえようとしたことが、結果的に良かったのではと感じています。
—–今フランスではリチャード・リンクレイター監督の『ヌーヴェル・ヴァーグ』が公開中ですが、プロデューサーが「フランス人監督だと逆に撮れなかった」(筆者注: アメリカ人監督だからこそ、愛と尊敬と娯楽性を持って「ヌーヴェル・ヴァーグ」を描けたとのこと)と言っていたことを思い出します。さて、本作は芸術とエンターテインメント性のバランスが絶妙だと思いました。監督はこのバランスというのは意識されていますか。
それはもう映画監督を志した時から、ずっと自分の主要なテーマとして持ち続けています。(原作者である作家の)吉田修一さんと組んできた過去作の『悪人』『怒り』も、基本的にテーマとしては非常にシリアスで重いヒューマンドラマですが、映画的リテラシーが高くなければ理解できない、という作品ではありません。間口をいかに広くして作るかということは、今回に限らず、常に意識しています。
—–では「世界の観客」に対してはいかがですか。
世界は、逆にほぼ意識していないです。それは意識してもわからないので。「世界を意識する」って何なのだろうと思うのです。例えば、世界に出て戦う武器があるとしたら、それは自分の足元にあると思っています。 顔の見えない広い外を見るよりも、自分はどこから来て、根っこはどこにあるのかという所から映画を見つめた方が、やはり結果として、今まで見えなかった所に繋ながるのではと考えます。世界というのを考えた時に、「特別さ」と「普遍性」が大事なのでは。この作品でいうと、歌舞伎という特別な世界と、同時に、親子の関係や友情、「芸術を極める」といった、どこの世界でも伝わる非常に普遍的な要素とが融合するから、世界に届くような気がしています。
聞き手: 林瑞絵



