混迷のウクライナ。

2月22日付リベラシオン紙。
2月22日付リベラシオン紙。
 ウクライナの首都キエフで昨年11月、ヤヌコビッチ大統領が欧州連合との政治・貿易協定を拒否したことで、親欧勢力が反政府運動を開始した。親ロ同大統領・汚職排撃の暴動が続き、鎮圧隊と大統領支持の民兵による凄惨な弾圧で2月18-20日、82人の死者を出した。3カ月間、首都のマイダン独立広場にヤヌコビッチ政権反対派が野営テントやバリケードで持久戦をくり広げる中、東部のロシア語圏市民は彼らを「ファシスト」「テロリスト」と批難し、東西ウクライナ国民の亀裂が浮き彫りに。
 プーチン大統領の傘下、ヤヌコビッチ大統領の二枚舌政治、彼の息子を含む政財界密着の大成金寡頭体制を基盤にするヤヌコビッチ大統領の放漫さにプーチン大統領もさじを投げたよう。大統領憎悪の暴動、欧米諸国の圧力が高まる中、2 月22日、最高議会がヤヌコビッチ大統領を解任、5月25日の大統領選挙を決定。27日、野党のヤツェニュク氏(元経済相)を暫定的首相に選出した。ヤヌコビッチ大統領は姿を消し、ロシアに保護されながら大統領の座に固執する。
 2004年「オレンジ革命」の色も鮮やか。同年ヤヌコビッチ対ユシチェンコ候補大統領選の不正結果に野党勢力が抗議。その中心人物、金髪の三つ編みクラウン・ブレードの美人政治家(元天然ガス実業家)ユリア・ティモシェンコを先頭に、市民はオレンジ色のマフラーをシンボルに抗議した。3回目の投票でユシチェンコが勝利し05年1月、大統領に就任したが、ロシア側が天然ガス料金を市場価格に合わせ2倍以上に引き上げたことでロシア・ウクライナ紛争勃発。2010年大統領選で親ロシア派の地域党ヤヌコビッチ党首とティモシェンコが激突、前者が共産党の支持を得て大統領に就任した。ティモシェンコは権力乱用罪で逮捕され7年の禁固刑に。2月22 日、最高議会が彼女を釈放し、車椅子でマイダン広場に姿を見せ、民衆の歓声を浴びた。
 ウクライナは、ビザンチン帝国からのキリスト教文化圏に属するが13世紀モンゴルが侵攻、14 世紀にポーランドが西部を、リトアニアが北・東部を占領しウクライナを分割。16-17世紀ウクライナの草原をコサック武人が支配。ロシア革命後、1920年ウクライナ人民共和国独立宣言。1920年ポーランド・ソビエト戦争後、前者が西ウクライナを支配。1923-33年レーニン、スターリンが農民の民族主義的意識を阻むため、ウクライナ農民根絶政策の人工的大飢饉で400〜600万人を餓死させ、同時に大粛清を開始した。1954年フルシチョフが黒海のクリミア半島をロシアから移管し、自治共和国とした。1991年ソ連崩壊時にウクライナは国家権利をロシアから取り戻し独立した。
 キエフの反乱にロシア系クリミア住民が敵対する。3月1日、同半島のセヴァストポリ沖に常時停泊するロシア艦隊が待機し、ロシア系部隊が半島を占拠。08年グルジアに「自国民保護」を掲げたロシア軍の侵攻に酷似。クリミア議会は3月6日、ロシアへの編入案を可決し3月16日、その是非を問う住民投票を行う。クリミア半島をめぐる一触即発の中、欧米諸国はどこまでプーチン大統領のロシア陣営再編の野望を牽制できるか。(君)