◎高邑香子(トゥール4年半+チュニス2年)
子どもの頃から、外国語や異文化に興味があった高邑さんは、北陸の山に囲まれた300世帯ほどの村に生まれた。「ずっと、山の向こう、海の向こうに何があるのかと思っていました」
これまでの人生を振り返ると、「要所要所で、キーパーソンにあっている」という。
最初のキーパーソンは、大学のオリエンテーションの時に隣になった女の子。高邑さんは特にフランスには興味はなかったが、彼女に誘われるがままにフランス語を第2外国語として履修した。彼女の影響で映画を見たり、一年目に単位をとれず再履修した授業の先生からパリの話を聞かされるうちに、「スイッチが入った」。必要単位を取った後も、フランス人の先生の授業をとるなど、さらにフランスに惹かれていった。
20歳の夏休みに出会ったのは、内モンゴルへ旅行に行ったとき、トレッキングのツアーであてがわれた馬。やんちゃな馬で、みんなから離れて、360度の大草原に馬と二人きりになった。そこで、「日本社会で、何ができるわけでも、何がしたいわけでもなく、あたりまえのように組み込まれてレールにそって社会人になって、と思っていたのが、なにか違うものもあるぞと体で感じました」
これまでがんばってきたフランス語を自分のものにしようと、卒業後、アルバイトで資金を貯め、1994年3月に渡仏。トゥールでのホームステイ先の娘はパリで美術史を専攻している学生で、その勉強をみせてもらっているうちに、興味が出てきた。トゥールの大学にはルネサンスの研究センターがあり、やってみようと思った。1995年9月、一年生から美術史専攻で大学に入った。
最初は、「答案の内容はいいけど、フランス語が稚拙」とはねられたこともある。膨大な量のフランス語の本を読んだ。その努力が実り、3年間で順調に学士号を取得した。修士課程に進もうと論文指導の教授と話していると、「君はアジア系のフランス人かと思っていた」と言われ、「心の中でガッツポーズをしました」
1998年夏。フランス生活も4年目に入り、仕事もしなければとも思い始めていた。一時帰国していた日本で、大使館の短期職員に応募、チュニジアの日本大使館への派遣が決まった。最初は修士論文を書きながらとも考えていたが、チュニジアに移住。2年の滞在の間、三味線コンサートの司会から、経済支援プロジェクトまでなんでもやらせてもらった。女性だからという理由で学校に通えず読み書きができない人たちや、チュニジアでは多い近親婚が原因の障害者の支援活動に携わった。「日本であたり前のことがあたり前ではない世界がある」と、身をもって知った。
2000年に任期を終えて日本に戻った。夫の就職活動の付き添いで行った横浜日仏学院の院長さんとの出会いがきっかけでフランス語講師の仕事を始めた。これがさらなる転機になった。県立高校での講師や、企業派遣などでフランス語講師としての経験を積んだ。
その後も様々な出会いがあった。そして2008年、これまでの人生経験を活かし、エフィ横浜フランス語教室を設立。「受講者の目線で〈こんな教室があったらいいな〉を目指して、今度は自分が導く側になれたらうれしい」。6年を迎え、良いスタッフに恵まれ、熱心な受講生が集まっている。(樫)
エフィ横浜フランス語教室
tel&fax : 045-442-0304
www.efyfrancais.com
Heureuses rencontres avec des personnes clés
TAKAMURA Kyoko (4 ans et demi à Tours et 2 ans à Tunis)
Dans son enfance passée dans un petit village, Kyoko se demandait «ce qui pouvait bien y avoir au-delà des mers et des montagnes». Depuis, sa vie a été «marquée par des rencontres avec des personnes clés».
La première d’entre elles a été celle qui, au début de l’année universitaire, lui a demandé de choisir le français comme seconde langue étrangère avec elle, alors que Kyoko ne s’y intéressait pas particulièrement. C’est en allant voir des films français avec cette amie et écoutant son professeur qui parlait de Paris, qu’elle a eu «un déclic».
A l’été de ses 20 ans, ce fut un cheval qu’elle a monté lors d’un voyage en Mongolie-intérieure. Seule sur son cheval quelque peu farouche, au mileu d’une vaste prairie ; elle a senti, alors, « qu’il y avait autre chose qu’une vie bien tracée par la société nipponne». Elle se décida, alors, de parfaire son français en France.
Par la suite, d’autres rencontres ont conduit Kyoko à étudier l’histoire de l’art à Tours et à travailler en Tunisie. Rentrée au Japon en 2000 elle devient enseignante de français pour ouvrir sa propre école de langue en 2008.