◎石鍋香代子(パリ6年+リヨン1年)
1947年生まれの石鍋さんは、これまでに2度フランスで暮らしたことがある。
最初にパリに行ったのは、1970年。仏文科で学んでいた石鍋さんは、流行していたイタリア映画やフランス映画に惹かれ、いつかフランスに行きたいと思っていた。当時は、五木寛之の『青年は荒野をめざす』(1967)がベストセラーだったように、「日本に飽き足らない若い人たちが、あてもなく外国に出て行く時代」だった。横浜から船、鉄道、プロペラ機などを乗り継いで10日間かけて東駅に着いた。
当初は1年の滞在の予定だったが、1年で帰っては中途半端だと思った。しかし、蓄えも減っていたので、専門学校に通ってライセンスをとり、日本人観光客相手のガイドとして働き始める。
2年ほどたった頃、パリの名所巡りやヴェルサイユを案内する毎日に、「これをずっとやるの?」と疑問を感じ始めた。本来は人に街や美術品に対する情熱を伝えるべきガイド業も、マニュアル通りに動くだけになっており、フランスにも刺激を感じることが少なくなっていた。その時、29歳、6年近いパリ生活に区切りをつけ、日本に戻った。
その時はフランスにはまた簡単に戻ってこられると思っていた。しかし、次にフランスで住むことになるのは、2011年。
その後は仏系の商社やスイスの宝飾ブランドで様々な仕事をした。60歳を過ぎてから心機一転、フランス語の通訳案内士の資格をとり、2年ほど仕事をしたが、また満たされない気持ちを抱き、フランスに戻る計画を立てた。
小さい頃から好きだったファッションの勉強をしようと思い、調べたが、パリの大学には存在せず、リヨン大学にあるヨーロッパの服飾史を学べるUniversité de la Modeのマスターコースを見つけ、願書を送った。2次審査の面接はスカイプで、若いフランス人学生との共同作業を案じる学長に食い下がり、念願の入学許可を得た。
40年ぶりのフランスは、生活も学業も予想以上に大変だった。大学は好きな服飾史以外は英語、マーケティング、情報など初めての学科、グループ演習に戸惑い、論文は100ページ以上を求められた。何度も心は折れそうなったが「最後まで努力してダメだったらしょうがない。自分の能力、努力が足りなかったということ。ただ後悔しないために逃げることはやめようと思いました」。論文は一年で書き上げ、20点中16.5の高い評価をもらった。
生活でも苦労が絶えなかった。「40年で日本もフランスも変わりました。私も歳を重ねました。その間の日本の発展はすさまじく、日本は便利になりました。反対にフランスは何をするのにも、相変わらず時間と手間がかかります」
それでも「23歳でフランスに行って、新しい生を受けた」という石鍋さん。「パリに行くと、いつも懐かしく、ほっとするような気持ちになります。やはり第二の故郷ですね」
現在、フランスで勉強したことやこれまでの経験を活かし、通訳ガイドの勉強をしたエコール・プリモで来春セミナーを予定している。
若いときをパリで過ごすことは、幸せなことだといったヘミングウェイの言葉を思い起こさせるような人生だ。(樫)
Une seconde naissance en France ISHINABÉ Kayoko, (6 ans à Paris et 1 an à Lyon)
Née en 1947, Kayoko a vécu en France à deux reprises. C’est en 1970 qu’elle arrive à Paris pour la première fois. «C’était l’époque où de nombreux jeunes gens, frustrés au Japon, partaient à l’étranger sans trop de raisons précises».
Elle a passé près de 6 ans à Paris durant lesquels elle travaillait comme guide-interprète pour les touristes japonais, mais le moment est venu où elle a commencé à se lasser de ce travail, et puis la France ne présentait plus pour elle un intérêt particulier.
La seconde fois, 40 an après, ce fut pour suivre les cours de Master 1 de l’Université de la Mode, à Lyon. Quarante ans après, revivre en France comme étudiante n’a pas été facile. « En 40 années, le Japon comme la France avait changé et de plus j’avais vieilli. Alors que le Japon s’est étonnamment développé et que tout y est très bien organisé, en France, cela prend toujours beaucoup de temps et d’énergie pour entreprendre quoi que ce soit».
Mais, Kayoko dit avoir ressenti « une seconde naissance à Paris». «En arrivant à Paris, je me sens toujours rassurée. C’est comme mon second chez moi.»