戦後NHKの人気ラジオ番組だった「とんち教室」。その企画・出演者の石黒敬七は、「石黒旦那」として独自の鋭いウィットや大ボケで聴衆を楽しませた。だが、彼が戦前パリで『巴里週報』なる邦人誌を編集していたことはあまり知られていない。一体どんな雑誌だったのだろう? 東京都杉並区在住の「若旦那」、長男の石黒敬章(けいしょう)さんにお話を伺った。
「これが創刊号です」。石黒の盟友だった画家の藤田嗣治の寄稿文が目を引く。コンピューターのない時代だから、紙面は手書きガリ版の一枚刷。だが、3年目からは金銭的な余裕ができ、石黒は凸版印刷機を買って本格的に写真入りのものを1000部発行できるまでになったという。パリ在住の同胞に関する情報や日本の近況などを報じる記事の傍らには、旅館や銀行、当時パリで故郷の味が食べられる数少ない場所だった日本人会料理部や「巴里ときわ」などの広告が並ぶ。まさにこの『オヴニー』の原型を見るようだ。
関東大震災の惨状を目にした石黒は、日本での将来に不安を感じ、柔道普及のために1925年3月に渡仏した。サン・ジャック通りの彼の道場ではフランス人のほか、藤田、ジャーナリストの松尾邦之助や若き日の岡本太郎も教えをうけた。だが柔道教室だけでは生活できず、石黒は藤田や松尾の助言を受けて日本語新聞「巴里週報」を創刊する。パリに到着して、わずか5カ月後というから、その行動力と人脈には圧倒される。
当時のパリの日本人人口は800人程度。後に有名になる芸術家や作家たちも多く住んでいた。
「みんな、何か機会があると飲む口実にして集まっていたようです」と言いながら、敬章さんは当時の写真を見せてくれた。集合写真の中で寝転がる石黒とおどける藤田、そして二人の間で泰然と構えるバロンこと薩摩治郎八。ヘミングウェイは同時期のパリを移動遊園地にたとえたが、写真の中の日本人たちの表情も喜々としている。
週報の発送に使われた購読者名簿も残っていた。「(購読料を)一年分位先払アリ」と書込みされた藤田の住所や『「いき」の構造』で有名な九鬼修造などの名前も見える。「週報」は石黒がパリを去る1933年まで250号以上発行された。
感慨にひたっていると、敬章さんが「もっと古いものがありますよ」と、小さな冊子を取り出した。『世のうはさ』、東洋学者ド・ロニーが1868年に創刊した瓦(かわら)版のような日本語新聞だ。「継続はされなかったようですが、海外における最古の邦人誌と言われています」。海外の日本語活字文化の系譜は、実はパリで始まった。驚きである。
数々の資料を見せていただいた後、旧式の国産カメラの前でポーズをとってもらう。敬章さんは幕末明治の古写真研究家。そんな大家を前にデジカメを握る手が思わず震えそうになった。(康)
*参考文献:和田博文監修『ライブラリー・日本人のフランス体験』(柏書房)
パリの日本人社会をムラにたとえるなら、まさに「村史」ともいえる全21巻。発行部数が限られているが、図書館などで読むことができる。
巴里週報を発行していた 石黒敬七のシンボルマークは 黒メガネにパイプだった。