境界線をやすやすとまたぐ。 “Pater”

 

 「これ、映画だから偽りだよ」「偽りじゃないよ、映画なんだから」という会話で幕を閉じるアラン・カヴァリエの『Pater』。幕開けは、美味しそうなトリュフやらツナやらを二つのお皿に取り分けている手のアップ。その手は映画監督アラン・カヴァリエの手で、それを撮っているのは俳優のヴァンサン・ランドンだ。長年交友があるらしい二人、監督は俳優に「僕が大統領、君が首相ということにして映画を撮ろう」ともちかける。
 カヴァリエは『テレーズ』(1986)でカンヌ映画祭に行った時から着たことがなかったスーツとシャツと靴を、この映画の「製作費」で買い揃える。ネクタイはランドンの自前を借りる。「衣裳」を着てすっかり役にはまった二人。大統領は首相に、最低賃金が決められているのだから最高賃金の限度も定めるべきだと、賃金格差をなくす法案を作ってくれと提案する。映画の中の映画では政治劇が繰り広げられるのだが、時々、それは大統領の言葉なのかカヴァリエの言葉なのか、首相の発言なのかランドンの発言なのか、監督が俳優に言ってるのか、大統領が首相に言ってるのか…その辺の境界線が崩れるというか、境界線をやすやすとまたいでしまうというか…脱線する。それこそがこの映画の面白さ。カメラを交代でもって相手を撮る。その二人の姿が映っている鏡。でもその全てを撮ってるはずの第三のカメラはどこにも見えない。虚構と実在、フィクションとドキュメンタリー、監督として演技者として観客として映画について考えながら映画を楽しむ。とっても刺激的だ。どのジャンルにもカテゴリーづけできないからOVNI(未確認飛行物体)と呼ばれる不思議な映画。
 今年のカンヌ映画祭で17分間のスタンディング・オヴェーションを浴びたというのも分かる。(吉)