フランス王になるまで。
パリで起ったことを中心に、アンリ4世の生涯を駆け足でたどってみよう。
アンリは、1553年12月13日、ピレネー山脈北側のナヴァール王国女王、ジャンヌ・ダルブレを母とし、ヴァンドーム公のアントワーヌ・ド・ブルボンを父として、ポーで生まれた。9歳で父を亡くしたアンリは、母のもとでカルヴァン派プロテスタントとして育てられる。
1572年8月18日、フランス王シャルル9世の妹のマルグリット・ド・ヴァロワと結婚。王母カトリーヌ・ド・メディシスが、宗教戦争で対立するカトリックとプロテスタントの融和策として考え出した政略結婚だった。アンリは、結婚のためにパリに向かう途中、母の死を知る。ナヴァール王となったアンリとマルグリットの結婚式は、ノートルダム大聖堂前の広場(地図1)で行われた。新郎がプロテスタントのため、ミサはなかった。
婚礼の宴のために、王宮ルーヴルにはプロテスタント貴族が数多く滞在し、カトリックが強いパリでは一触即発の緊張状態が続いた。カトリック同盟の首謀格ギーズ公を中心とするカトリック貴族たちは、8月23日の夜、ルーヴル宮内にいたプロテスタント貴族を路上に連れ出し、虐殺する。同日の夜中から24日の明け方にかけては、性別、社会的身分に関係なくプロテスタントを殺せという指令が発せられた。24日が聖バルテルミーの日であることから、「聖バルテルミーの虐殺」と呼ばれた事件である。ルーヴルの向かい側にあり、王家の小教区教会だったサンジェルマン・ロクセロワ教会(地図2)で打たれた警鐘が、虐殺開始の合図だった。警報は他の教会でも次々と鳴らされ、闇に乗じたプロテスタントに襲われるのではないかと混乱したパリ市民も虐殺に加担。その結果、おびただしい遺体がセーヌに投げ込まれ、川は血で染まった。犠牲者は数千人といわれる。王位継承権を持つ王子として難を逃れたアンリは強制的にカトリックに改宗させられるが、1576年プロテスタントに再改宗し、プロテスタントの盟主として宗教戦争を戦った。
シャルル9世は1574年に病死し、その弟のアンリ3世が王権を継いでいた。しかし、アンリ3世は1589年にカトリック同盟の僧に暗殺されたため、王位がアンリに回ってきた。こうしてヴァロワ朝が断絶し、アンリはアンリ4世としてブルボン朝を開いたが、カトリックの抵抗が強く、パリを陥落させることができない。1593年、パリの北にあるサンドニ大聖堂で新教を棄教したことで、翌1594年に、晴れてフランス王としてパリ入城を果たすことができた。
物心ついたときから宗教戦争の中で生きてきたアンリは、1598年、ナントの勅令で信仰の自由を保障し、40年近い内戦に終止符を打った。
ルーヴル大改造計画。
ルーヴルに居を構えたアンリの事業は、戦争で荒廃した国土を建て直し、首都を整備することだった。「アンリ4世の治下で、石工は働きづめ」といわれたほど、建築工事が続いた。王宮ルーヴルの大改造もそのうちの一つだ。中世の城の名残りを取り壊し、すでにあった建築の一部を延長させて、正方形の中庭を囲むクール・カレを造り、その西側にも中庭を囲む建物を造る計画は、アンリ4世の突然の死で頓挫した。実現したのは、水際のギャラリーGalerie du bord de l’eau(地図3)と呼ばれる、セーヌ川沿いに西に延びる細長い建物。セーヌ側から見ると、イニシャルの「H」が建物のいたるところに彫られていて、アンリ4世の強烈な自己宣伝力に圧倒される。ルイ13世や14世も自分が建てた建物にイニシャルを入れているが、その比ではない。「H」と長年の愛妾ガブリエル・デストレの「G」を合わせた装飾もあるが、残念ながら、その部分は今、工事のため覆われていて見えない。小ギャラリーPetite Galerieと呼ばれる、水際のギャラリーとクール・カレの西の端を結ぶ建物も、アンリ4世が完成させたものだ。
カルナヴァレ美術館の中庭にあるアンリ4世のレリーフ(19世紀の作品)。
© Musée Carnavalet
ジュピターに扮したアンリ4世。
Barthéremy PRIEUR “Henri IV en Jupiter”
© 2007 Musée du Louvre / Pierre Philibert
(ルーヴル美術館リシュリュー翼1階31室)
サンジェルマン・ロクセロワ教会。
ここでで鳴らされた警鐘が、『聖バルテルミーの虐殺』が始まるきっかけとなった。
Galerie du bord de l’eau