アンリ4世を再発見しよう。

アンリ4世と女たち。

マルグリットとの結婚は、あってなきに等しかった。二人ともおおっぴらに多くの愛人を持っていたが、それはともかく世継ぎがいないことが決定的で、友好的に結婚を解消した。アンリは、王妃になれる出自でないにもかかわらず、自分との間に3人の子をなしたガブリエル・デストレと再婚したかったが、彼女は1599年に急死する。その半年後、イタリアのメディチ家から25歳のマリーを多額の持参金とともに迎え入れた。9カ月後、後のルイ13世となる皇太子が生まれた。マリー・ド・メディシスとの間には6人の子に恵まれたが、生涯75人以上の愛人がいたといわれるアンリ4世の女好きは相変わらずだった。

1610年5月14日、暗殺。
マリー・ド・メディシスが正式にフランス王妃と認められた戴冠式がサンドニ大聖堂で行われた翌日の1610年5月14日朝。その日は外出しないようにという占星術師の警告を無視して、寵臣リシュリューとの打ち合わせのために、ルーヴル宮を出て馬車でマレ地区のアルスナルに向かっていたアンリは、途中、今のレアールそばのフェロヌリー通りRue de la Ferronerie(地図4)の8番地で、突然交通渋滞に遭う。そのとき、3週間前から王を狙ってルーヴル周辺をうろついていた狂信的なカトリックのフランソワ・ラヴァイヤックが馬車に踊り込み、刀の二突きで王の息の根を止めた。周りの警護は手薄だった。
ラヴァイヤックは、頑として自分ひとりの犯行と主張した。暗殺を手引きした勢力があった可能性が強いが、真実はいまだに謎だ。現在のパリ市庁舎前広場(木)は、グレーヴ広場Place de Grèveと呼ばれ、当時は処刑場だった。5月27日にここに引き出されたラヴァイヤックは、公衆の面前で体に硫黄、タール、鉛、油の混合物を注がれ、綱で四肢を馬に結び付けられて八つ裂きにされた。その体は、最後にばらばらにされて火の中にくべられた。
アンリ4世の亡骸は、バルサムを塗られてルーヴルのカリアチードの間に1カ月半安置された後、王家の墓所であるサンドニ大聖堂に葬られた。
フォンテーヌブロー派『カブリエル・デストレ(右)とその妹のヴィラール公爵夫人』
© 2009 Musée du Louvre /
Erich Lessing (ルーヴル美術館リシュリュー翼2階10室)


現在のフェロヌリー通り。


フェロヌリー通り8番地にある、アンリ4世暗殺の銘。


ルーヴル美術館カリアチードの間。(リシュリー翼0階17室)
© 2006 Musée du Louvre / Pierre Philibert

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