座談会:終の住処としてパリを選んだ7人
座談会のテーマは「パリで余生をおくる」、つまり「終(つい)の住処」としてパリを選んだ方たち7人に集まっていただきました。
パリに来られた動機は?
K. U.:ぼくは1977年に1、2年のつもりで来たのですが、その前に青少年の欧州50日間一周という旅行に付き添い、実際に西洋の街を見て、そこの生活を知るには1年と思ったのが、のびて今に至ったわけ。
T.N.:東京でランコム製品の輸入元の化粧品会社での美容師たちの指導にあたり、研修のためパリに来ました。仏語習得はアリアンスに1年程通いましたがギブ
アップ。70年代初期にルーマニア人男性と知り合い、彼に紹介された同国人女性と16区に美容室を開いたが経済的問題でケンカ別れに。
S. N.:70年代の国際化のなかで自然食だけでなく東西の架け橋になってくれと友人にすすめられ、40過ぎで来仏し、フランス人がやっていた自然食レストランを引き継ぎました。
S. M.:50年代からフランス映画に魅せられアテネフランセに通い
、亡父(杉山長谷夫『花嫁人形』を作曲)の遺志を継ぐべく外国行きを志望し、貿易会社の修業生試験に合格、1957年に来仏。妻とはコンスタン湖で知り合
い1年後に結婚しました。当時社内では国際結婚は認められておらず、パリ支店長は困惑し、ロンドンにいる欧州監督に呼び出され、国際結婚を強行するなら辞
めてもらうと怒鳴られました。「戦前に国際結婚した者は皆失敗したからお前も失敗する」とどやされましたが、私は「憲法にも結婚は男女の合意に基づいての
み成立するとある。最後の決定は私にとらせて下さい」と主張し、同僚たちは同情的でした。以後、ミラノ、リオと遠地に移転、最後には妻が外国人の場合は店
長にはできないと言われ、私は次長止まりでした。つまりメーカーさんに気に入られるには接待が第一、妻が外国人では充分に接待できないという点が不利にな
りました。妻もその点を感じていました。
パリで長年暮らしてきて一番嬉しかったこと、哀しかったことは?
S. N.:来仏20年後、農家の土地を借りて試験的に有機野菜の栽培を始めました。ある日何者かにめちゃくちゃに荒らされており、暗い気持に陥ってしまいました。平
和な村に突然入り込んできた東洋人を嫌う者の仕業だろうと茫然としていたら、大地主の老人がやって来て「これは近所の二人の男の子がやったようで
す…Excusez-nous」と言って去っていった。なんだ子供の仕業だったのか!
私はほっとしました。それにしてもあの長老の物腰、態度の美しさ!
村を背負い、責任をとる、その気品は今でも忘れられません。次の日曜日に10歳位の少年と父親がやって来て「息子が貴方の畑のいたずらをしたことに対しお
詫びに来ました」。少年は父親の背後に隠れ、うつむき、こちらを盗み見ています。なんともいじらしく、思わず笑ってしまった。そして手を差しのべて握手。
父親は「子供にきちんと謝らせたい」と言っていた。それ以後、私が車で村を通り抜けるたびに道で遊ぶ子供たちは声を上げて手を振ってくれます。善いことは
善い、悪いことは悪い、日本もフランスも究極の価値観は同じだと知ったのです。それなら私の骨はこの地に埋められても安心して眠ることができるだろう、と
思ったのです。
S.Y.:デパート内で化粧品部門で働いていましたが、日本人は私一人だったので、フランス人同僚たちは私との間に一線を引いていたようです。ある同僚がエイ
ズで亡くなった時も、私には知らされませんでしたし。彼らは東洋人を同僚にもつということに、慣れていなかったのだと思います。
文化・言葉の問題をどう克服してきましたか?
S. N.:最初の1、2年は言葉は分ってもフランス人が考えていることがさっぱり分らず、頭の中で濃い霞となっておかしくなりました。5、6年後には落ち着きましたが、カルチャーショックというよりも、日本人とフランス人のメンタリティーの違いかと思います。
F. F.:私も定年になり、母国語で話すほうが楽になってきています。主人は自分の主義を曲げない人ですが、私が息子とうまく言葉で疎通できない点は主人が補ってくれています。
H. M.:50年代に来仏した時、夫に「日本ではフランス語は習ってこないほうがいい」と言われ、来仏1カ月後からフランス人女性の個人授業を受けました。自然に会話の理解力はつきましたが、子供たちとは日仏語半々でやってきました。
日仏家庭の良い点と難しいと思った点、長年、フランス人配偶者と暮らせてこれた秘訣は?
S. M.:二つの文化を生きる素晴らしさ。相手に対する思いやりが肝要、双方の個性を尊び合うこと。国際結婚の場合、両方が歩み寄ることだと思います。しかし問題がある時はフランス語でとことん議論し、どちらかが「パルドン」と折れる仲なおりのころあいが大切です。
F.F.:日仏であることで、宗教に左右されずに暮らせ、主人も私も無宗教。主人は68年世代ですが互いに思想を邪魔しないこと。くい違いが生じた時には、些
細なことでも言葉にしなければならないのでたいへんです。仏語で怒鳴られると、同類の文句で怒鳴り返すようにしています。たいへん疲れますが。無言で通じ
合えるのでは、という日本的な考えは通用しないようです。
長期滞在者として日本人? それとも日仏人としてのアイデンティティを持ちますか?
S. M.:私は考え方も100%日本人で、妻が日本人の夫に合わせています。子供とはあまり付き合いませんが、彼らは100%パリジャンだから両方で批判を言い合っていますが、最後には「C’est latin しょうがない」というのがいつもの落ちです。
S. N.:家庭内では純日本式、子供とも日本語で話しますが、彼らはフランス人としてのアイデンティティをもってます。
K.U.:20数年間パリや郊外の小学校や図書館で折り紙などを教えてきましたが、私が教壇に立つ時の子供たちの驚きの顔が今でも鮮やかに思い出されます。地
方の子供たちの驚きはなおさらです。先生と一緒に入ってきたへんな男は何者?と詮索するような視線がそそがれるのを体全体が痛くなるほど強く感じます。
「あの人は中国人」「ベトナム人だ」のささやきが聞こえてきます。私の容貌が彼らの思考範囲を越えているからでしょう。「ニホンジンだって!」と叫んでそ
のあと尻切れトンボ。そのころの子供たちにとって日本は夢よりも遠い国だったのです。この子供たちの前に初めて姿を見せた日本人として、彼らの記憶のどこ
かに残るであろうと思うと、自分の行動に対する責任が増していくのを感じます。
フランスの社会保障をどう思いますか?
S. M.:ガン治療はシラク大統領時代に無料になりました。医療保険は日本よりずっと進んでいます。
T. N.:フランスでは25年しか働いてなく、年金は月1000€程ですが、日仏間の協定で東京で働いた年数が加えられるそうです。それと以前購入したステュディオがあるので暮らせるようです。
K.U.:最低3年間税金を払っていれば低家賃住宅HLMに入れると聞き、自分がやってきた活動歴を提示し申請しましたら、パリ市の文化担当者に書類が回さ
れ、幸運なことに1992年にHLMに入れました。家賃は2部屋で300€くらいですが住居手当200€が支給され、わずかですが国から老齢年金ももらっ
ています。老人ホームの食堂では昼食を3.4€で食べられます。パリ市では文化活動が重んじられ、私の場合、外国人アーティストとしてまれに見る恵まれた
ケースだと思います。
死後、故郷の墓地に入りたいと思いますか?
K. U.:ぼくの遺体は焼いてもらって、ペールラシェーズ墓地にある「〈思い出の花園〉にまいてほしい」と友人に頼み、その葬儀費用を貯めています。
T. N.:ぼくと30年間一緒に暮らしていた、仏国籍を得たルーマニア人の友人が80歳近くで身体が弱りはじめ、ぼくも定年になったのでお互いのためにパクス(*異
性・同性同士の共同生活者としての連帯市民協約PACS)を結んだ方が便利だと弁護士の助言もあり、区役所で署名しました。そのあと彼がアルツハイマーに
罹かり、アメリカンホスピタルまで通院することも困難になり自宅で介護し、市の介護人が定期的に来て湯など浴びさせてくれました。彼は89歳で亡くなり、
遺体は母国には送らずに、彼の伯母が眠るモンマルトル墓地に埋葬されました。その墓の近くに、パリでデザイン関係の仕事をしていたという30代の日本人女
性のお墓があり、毎月1回友だちが来て掃除したりしているようです。墓石の上にある鉢の間にプラスチック箱があり、その中にメモ帳があり、ご両親や友人た
ちが墓の中で眠っている彼女に文通するように書きおきしていきます。彼女はガンで亡くなったそうですが、なんて幸せなんだろうと思います。
F. F.:主人は土葬、私は火葬を希望しますが、今のところ墓地はどこにするのか考えていません。
S. M.:パリに日系共同墓地を、という構想は方向としては可能だと思う。ただし自分がどこに入るかはまだ決めてない。火葬でも埋葬でも「妻と一緒に眠れるところ」と妻に下駄を預けてあります。
司会者(君):参加者の皆さま、心をわってお話ししてくださり、ありがとうございました。
F.F.さん
(1943年生まれ)
1972年来仏。
H.M.さん(1927年生れ)1956年来仏。
S.N.さん(1928年生れ)
1974年来仏。
S.Y.さん(1941年生れ)
1972年来仏。
K.U.さん
(1933年生れ)
1977年来仏。
S.M.さん(1927年生れ)1957年来仏。
T.N.さん(1939年生れ)
1974年来仏。