パリで「日本人社会」と〈マロニエの会〉
パリで「日本人社会」という言葉が使われるようになったのは70年代後半からではないだろうか。1950年代から来仏したアーティストや外交官、商社マンもいるが、渡航が自由になった1960年代から来仏した人が多いのではなかろうか。
1965年ころの邦人在住者は約300人、40年後の今日、その10倍の3万1000人が在住。60歳以上の邦人は2000年に650人だったのが09年には約1500人(75歳以上約250人、100歳1人)と10年で2倍以上に。在仏邦人の高齢化が進み、日本にはもう家族もいない、帰国せずにフランスで余生を…という人もかなりいるのでは。
〈ブラジルの日系社会〉
ブラジルに日本から初めて大勢の農民が「契約移民」として渡ったのは1908年のこと。100年後の2008年にはブラジル全土に日系人は140万人、その7割にあたる約100万人がサンパウロに居住。同市には70年代から日系人のための総合病院から、65歳以上の高齢者を対象とする養護ホームまであるという。
ブラジルの日系社会に対し、個人的に定着した邦人が多い在仏日系社会の歴史は50年足らず。だがフランスで長年暮らしてきた人にとっては、母国への郷愁も日に日に薄れ、第二の故郷フランスに足をふんばってでも暮らしたい、もう頼れる人もいないフランスの生活に終止符を打ちたい…などさまざまな想いを抱きながらも、邦人のための老人ホームを夢みる日系高齢者は増えつつあると言えよう。
〈フランスの高齢者のための社会保障〉
今日フランス在住の外国人は滞在許可を得ると同時に社会保障の医療保険から、低所得者には住居手当、老齢年金・高齢者連帯手当まで受けられる。しかし福祉国家といわれるフランスの社会保障にあやかるには、官僚的な書類申請から手続きまで、言語のうえでの努力と忍耐がフランス人以上に必要となる。
長年アーティストまたは会社員として過ごしたあと定年退職後、社会保障またはアーティスト協会 Maison des artistesが支給する年金や高齢者住居手当などはどのくらい受給できるのか、介護施設や老人ホームに入れるのか…老後の設計を考える時期に来ている人も多いのではなかろうか。
〈マロニエの会〉
今から10年ほど前にパリの日本人会の有志たちが集まって発足したのが〈マロニエの会〉。現在会長を務める上野巌氏は60年代初期に来仏、パリで日本レストランを開業した。
〈マロニエの会〉の会員たちは月に3回定期的に集まり、各々が抱える問題や医療体験などを語り合い、季刊誌『かわら版』でも発表。その中で安本副会長はフランスの高齢者関係の法律などを解説している。いくつかの例を追ってみよう。
日本で生まれた日仏ハーフの女性で40代に来仏後、国際機関で働いたが定年後フランスには身寄りもなく、88歳から〈マロニエの会〉が面倒をみる。日本語が母国語だったが彼女はフランス語が話せるということで、安本氏らが交渉し91歳から公立の老人ホームに入居できたという。
1月24日〈マロニエの会〉の新年会。
また仏国籍を取得した76歳の独身日本人女性が、フランスに身寄りもなく誰にも連絡せず病院で亡くなったケースなどは、家族への連絡から「葬儀代行委任状」の仏語訳、医師による死亡確認書と出生証明書などの提出、市役所から死亡証明を得て葬儀に至るまで23日もかかったが〈マロニエの会〉の代表者が葬儀まで代行している。
〈マロニエの会〉はボランティア活動として、独り住まいの高齢日系人への電話による相談や諸問題への対応などのほかに、夜間援助サービスや買い物・食事の世話などをする同胞女性も出てきているが、今のところ個人レベルの活動にとどまり、それらの管理体制の確立はこれからだという。従って高齢の会員だけでなく40~50代の邦人の参加が強く求められている。
〈マロニエの会〉の目標は、邦人高齢者が医療サービスを日本語で受けられ、日本食も食べられる老人ホームの建設だ。それには膨大な資金と時間もかかるので、せめてどこかの老人ホームに邦人の入れる一角を確保し、日系職員の世話も受けられるような〈マロニエの会老人ホーム〉の実現だという。それはフランスで余生をおくる邦人たちの10年、20年、30年後の安住の場作りにもつながっていると言えるだろう。(君)