元RPR(共和国連合)、現在の与党UMP (国民運動団体)アラン・ジュペ総裁(ボルドー市長)は、1988年~95年、シラク大統領がパリ市長だった時期に、市の財政担当助役だった。市長と腹心の助役…、パリ市庁舎という密室で2人にとってこれほど都合のいい時期はなかっただろう。なぜなら政党資金支給法(1995年)が成立した後も、RPRの職員7人の架空給与をパリ市に払わせ、10数人の給与を公共事業関連会社に賄賂のかたちで支払わせる裏工作を駆使できたからだ。 が、1995年(バラデュール政権)に、保守与党は代議員汚職法を成立させている。それによると違反者は禁固刑(ほとんどは執行猶予付)と有罪判決時から自動的にある期間党からの立候補資格を失い、その2倍の期間、被選挙資格も剥奪される。 1月30日、ナンテール軽罪裁判所のカトリーヌ・ピエルス裁判長と2人の裁判長補佐は「ジュペ被告は直接・間接的利益を得るため職権を乱用し…国民の信頼を裏切った」とし、執行猶予付禁固18カ月と10年の被選挙資格剥奪を宣告。元RPR及び企業関係者26人にも有罪判決。ジュペ被告は上告したが、この判決にいちばん打撃を受けたのはシラク大統領だろう。 ジュペ氏は自叙伝『ベニスの誘惑』(93年 Grasset)にも、また今年1月にも「政界を去りたい」と洩らしていたが、長年シラク大統領の盾となり矛となり、大統領が “我々の中で最も優秀”と認める寵臣。必死で “息子”に辞めないよう懇願する “親”の姿は、かつての裏切り者(95年大統領選でバラデュール側につく)サルコジ内務相に大統領への道を阻むため、そしてシラク大統領非再選の場合、パリ市長時代の疑惑のツケがまわってくるので時間との闘いの姿だ。To be or not to be の苦悩のはて、2月3日、ジュペ氏はテレビで「自分の過ちは認めるが、政界に残る」決断を発表。が、ドラノエ・パリ市長などは「RPRが遣ったパリ市民のお金、約1200万ユーロの返済を求める」と表明している。ジュペ氏の茨の道はさらに険しくなりそう。 そしてジュペ裁判にさらに輪をかけたのは、判決翌日、リベラシオン紙によると、3人の司法官への盗聴や脅迫の手紙、何者かによる不法侵入などがあり、司法官らは警戒し裁判所のコンピュータも使わず、会話も通路やカフェで…とサスペンスを体験。さては?と国民に疑うひまも与えずシラク大統領は、司法官らの言うことが事実かどうか、司法官職高等評議会(CSM)も通さずに、破棄院と会計検査院両院長と国務院(Conseil d’Etat)副会長の3人に異例の行政調査を使命。検察庁も司法官らに対する威圧があったのかどうか調査を開始。国民議会も調査委員会を設けているが野党は参加を拒否している。まるで立法(議会)、行政(政府)、司法(裁判所)の三権(分立のはず)が異常体制に入ったかのよう。 1年後の控訴裁を待つ間、ジュペ氏が ”ダモクレスの剣”を頭上にかざしたまま、UMPはよそ者(UDF)”サルコ”に母屋をとられないため、そして3月の地方選、 3年後の大統領選をひかえているこの緊急時、サルコはひとり牙を研ぐ…。(君) |
アラン・ジュペ立身出世歴 |