パリのアトリエ開放展 -アーティストのアトリエで作品が訴えかけてくる。

Génie de la Bastille
1989年、バスティーユ広場に新オペラ座が完成してから、周辺は一躍文化的なカルティエに変貌。
昔ながらの庶民的な気質に加え、今では夜遅くまで、数多いレストランやカフェでにぎわい、あらゆる顔が入り混じる。
こんなバスティーユ街でふたつの協会がほとんど同時期に、アトリエ開放展を催している。日本のアーティストとの共同展はとても刺激的な
体験となった。
(彫刻家のジゼルさん)

アトリエ開放の元祖。
 1984年、シャロンヌ通りに住んでいたアーティスト数人で立ち上げた協会が”ジェニー・ド・ラ・バスティーユ”。ちょうど高齢化により引退する家具職人達が増え、彼らの仕事場が徐々に画家や彫刻家達のアトリエに変わっていった時期に当たる。当時、アーティストは中庭側しかアトリエとして使用できなかったが、協会の創立者たちの努力によって、法律を改正させるまでに及び、活動もしやすくなりアトリエの数も一気に増えた。
初めは地域のアーティストならだれでも参加できるアトリエ開放展システムだったが、アマチュアの「日曜画家」と芸術活動のみで生計をたてている人を分け隔てる動きがでる。それが、あらかじめ参加者を審査するシステムを生むことになり、120人ぐらいいたメンバーも、約60名という小さな規模になってしまった。このシステムに反対するメンバーが新たな協会を起こして、同時期にアトリエ開放展を開催しているので、両方の案内所を訪れ、二つの案内図を持ち歩かないとバスティーユ全体のアトリエを把握できない状況が続いている。
10年以上、協会の連絡場所として自分のアトリエを提供しているジゼルさんは彫刻家。建築科専攻の学生に造形学を教えている。「同じアパートで、別々の協会のアーティストが参加していることもあり、訪れる人がちょっと戸惑う。分裂は残念な過去のできごとだが、これからも平行線上で自分達の独自の活動をしていくしかない」と言う。
この協会は、数年来、海外の作家との交流活動を続けている。96年は日本からやってきた約30名のアーティストが、バスティーユの作家と共に過ごし、約1カ月間の滞在中に作品を仕上げて展示をした。「とても刺激的な体験となった。こんなに文化のちがう人たちがいっしょに過ごすのは大変な部分もあるけど、学ぶことが大きい」。2年後の98年にはバスティーユのアーティスト20名が京都を訪れた。「ホテル住まいをしながら廃校となった学校での展覧会。生活環境のちがいで本来のスタイルとはちがってしまったが、交流という点ではすばらしい時が持てた。今でも連絡をしあっている日本人アーティストの友人が何人もいる」。昨年はドイツから。作品の展示のみならず、アトリエで朗読会も催した。今年はヨーロッパの都市がテーマで、マドリッド、アムステルダムなど各都市からアーティストがやってくる。
経済的な面では、協会の会員による会費や参加費に加え、パリ市や文化省からの補助金が大きな助けとなっている。

パリ市が無料で提供するバスが、会期中バスティーユ広場のオペラ座前に停められ、中で、作品の一部を見たり、地図を手に入れることができる。


先駆者
のひとり、松谷氏。

70年代初めにモンパルナスからバスティーユに引っ越してきた松谷氏。当時、友人から「そんな遠くまで遊びに行けない」と言われた。70年代後半にはすでに自宅を開放して個展を催していたという、アトリエ・オープンの先駆者的存在だ。その後、たくさんのアーティストがバスティーユに移ってきた。”ジェ
ニー・ド・ラ・バスティーユ”には立ち上げから数年間参加。当時のテーマは「現代芸術はいかに創るか、また創られるか」。オープニング・パーティーには文化大臣や多数の記者が参加し、盛大だったそうだ。

訪れる人が多くなりすぎて最近は参加していない。マイペースで創作している。
(制作中の松谷さん)

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