マダム・キミのシルバーラウンジ:6月1日号

 田原リージャ(79)さんは日ブラジル2重国籍者。両親は1933年、沼津市からブラジルに移民。リージャさんと妹さんはサンパウロで生まれる。父はコーヒー園や車の販売業に就く。99年、父は97歳、母は95歳で他界。リージャさんは22歳の時、東京から56年に移民してきた男性と結婚し娘2人、息子1人をもつ。40歳で法学部に入り、卒業後、弁護士事務所に勤務。

 パリに滞在されたことはありますか。
 6カ月の観光ビザで 70年代ブラジルの軍政時代にパリに来て、ベルリンには壁崩壊前後にも行きました。少女時代から日・仏映画を何でも観ました。私とフランスとの関係はあくまでも映画に出てくるシーンや情景が脳裏に刻まれ、私のフランス像を形作っています。

 日本で働かれたことはありますか。
 サンパウロで50歳まで働き、87年から20年間、日本の警察の取り調べ関係のスペイン・ポルトガル・日本語3カ国語の通訳を務めました。昔から読書家だった父は種々の雑誌を購読し、私は10歳頃から文藝春秋や中央公論などを読みました。日本語の文法などは大学で学び、日本語の教師もし、これからも続けたいと思います。

 ブラジルという民族混交の地で日本人として違和感は感じられませんでしたか。
 たしかにポルトガル人、インディオ、黒人、中国人、日本人がそれぞれの文化を保持しているわけですが、両親はもともとカトリックでしたから、仏教徒日本人としてよりも自然に南米社会に同化できたのだと思います。

 マンガ作家として、ナチス占領下パリを舞台にした『“事実より奇なコント”のものがたり』とインディオと白人が織りなす『緑のゆりの奇跡』を日本語で東京で自費出版されましたね。
 映画の脚本を書くように書きました。妹の娘はミラノでイタリア人と結婚し、夫婦でマンガ作家として暮らしています。私はサンパウロ、東京、パリの間を行き来していますが、1世紀以来、根を張っているサンパウロの日本人コミュニティで移民2世として生まれ育った私は、ブラジル人なのか日本人なのか分らなくなっています。ひとつだけ言えるのは、日・ポルトガル・スペイン語という3カ国語にすぎませんが、それらが杖の役を果たしてくれていることです。