Avant Nymphéas Monet découvre Giverny, 1883-1890
2026年はクロード・モネ(1840-1926)没後100周年にあたる。日本を含め、各地でモネ展が開かれているが、モネが後半生を過ごしたジヴェルニーにあるジヴェルニー印象派美術館では、ジヴェルニーに来てから、有名な「睡蓮」を描く前、何をどう描いていたのか、に焦点を当てた展覧会を開催中だ。
ジヴェルニーに移住
86歳で亡くなったモネは、人生のちょうど真ん中にあたる43歳の時にジヴェルニーに転居した。10代の頃はルアーヴルでカリカチュア画家として高い評価を得ていたものの、画家として成功し、経済的安定を得るまでは長い道のりがあった。

Claude Monet (1840-1926)
Autoportrait coiffé d’un béret, 1886Huile sur toile, 56 x 46 cm
Collection particulière© Tous droits réservés / Roy fox Fine Art
ジヴェルニーに引っ越す1883年の2年前に、画商のデュラン・リュエルがアトリエの全作品を買い上げ、強力な支援者となったことから、生活は次第に楽になっていった。1868年に訪れたことがあるヴェルノンの近辺に見つけたのがジヴェルニーの家だった。お金がなくてもブルジョワ風に生活していたモネは美しい家が好き。立派な出立ちで、息子2人を伴って、所有者に会いに行った。当時、ジヴェルニーは270人が住む小さな村で、正式な結婚を経ず、恋人のアリス・オシュデとお互いの連れ子8人を伴った生活は、村人から白い目で見られたという。モネは7年間借りた後、1890年にこの家を買い取った。
ジヴェルニー近辺の風景
若い頃、人物のカリカチュアを描いていたモネは、人物を描くのは得意だったはずだが、光に溢れた風景の中にどう人物を入れるかに苦慮したようだ。次第に人物は姿を消し、人のいない風景になっていった。モネの次男ミッシェルとアリスが背を持たせかけて座っている「積みわら」は1885年の作。同様の場所を描いたその5年後の「ジヴェルニーの草原」では人の姿は描かれていない。

Claude Monet (1840-1926)
Les Meules à Giverny, soleil couchant, 1888-1889
Huile sur toile, 65 x 92 cm
Saitama, The Museum of Modern Art, inv. 0-0023
© Saitama, The Museum of Modern Art
ルーアンのカテドラルを題材に何作も描いた時のように、モネはジヴェルニーでも同じ場所を連作で描いた。1890年には、同じ場所からミカラス麦畑を5点描いた。そのうち2点が展示されている。1点では、ヒナゲシの花がもう1点より多い。光の具合も微妙に違う。ストラスブール近代現代美術館の所蔵品はより暗い。
水も重要な要素だ。セーヌ川も描いたが、セーヌはジヴェルニーの村から徒歩20分ほどでそれほど近くではない。会場には村の境界線を流れるエプト川の風景が何点かある。早春の川の早い速い流れを捉えた絵は、友人でもあったギュスターヴ・クールベの風景画を思わせる。
睡蓮の池を造る
モネが家の敷地内を自由に改変できるようになったのは、所有者となった1890年以降だ。この時、モネの池がある敷地はまだ購入していなかった。3年後の1893年、鉄道を挟んだ向かい側にあり、エプト川に連なる土地を購入し、池を造った。
1889年のパリ万博の時、苗木業者のボリー・ラトゥール=マルリックが、野生の睡蓮から色が鮮やかな交配種を作り、セーヌのほとりに植えて紹介し、大きな反響を呼んだ。モネが万博で睡蓮を見たかどうかの記録はないが、ラトゥール=マルリックはその2年前に、モネも愛読者だった園芸雑誌「ジャルダン」に睡蓮のことを書いていたから、当然、新種の睡蓮についての情報は得ていたはずだ。池を作る構想を得ていたモネは、ラトゥール=マルリックに水生植物23種をそれぞれ3株ずつ注文した。
庭師を雇う前は、モネ自身が庭仕事をしていた。1883年、画商のデュラン=リュエルに宛てた手紙に「庭仕事でちょっと時間がとられている。天気の悪い時に描く事ができるよう、庭に花を植えている」と書いている。
同じ場所を描いた作品は世界中に散らばっている。日本、米国などから借りた作品を一堂に集め、他所では見られない展覧会となっている。(羽)

