ナチス占領下のパリに住んでいたユダヤ人女性エレーヌ・ベールが、1942年4月から1944年2月にかけて書いていた日記が発行された。
「(…)J.M.(恋人のジャン・モラヴィエッキ)と果実を摘みに行った。今、それを思い返すと、夢を見ているような気持ち。草は露にまみれ、空は青く、太陽が露の玉をキラキラと輝かせ、心は喜びに満たされていた」と、すでに父が検挙されたり、自身もユダヤ人であることを示す黄色い布章を胸につけて差別の視線を浴びていたりした21歳のベールの、つかの間の喜びの声が聞こえてくる。その2年後、彼女はベルゲン・ベルセンの強制収容所で病死している。
ベールは1921年パリ生まれ。裕福な家庭で幸せに育ち、1942年当時はソルボンヌで英文学を専攻し、教授資格試験を準備中だった。シェイクスピアやキーツの他にもドストエフスキーの作品などを愛読する読書家で、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲やバッハのソナタを弾きこなす優れたバイオリン奏者でもあった。「『チボー家の人々』をほとんど読み終えた。ジャック(主人公)が頭から離れない。あまりにも哀しい彼の死。でもそれは避けられないものだった。この本が美しいのは、現実の美しさを保っているからだ」
感受性に富んだ内向的な性格でありながらも、周りで苦しんでいる人たちへの視線を失うことはなく、ユダヤ人の子供たちを救う団体で積極的に活動していた。「この子たちもドランシーに連れて行かれたら強制移送されてしまうのだろうか。今は中庭で遊んでいる。傷やシラミだらけで。かわいそうな子供たちよ」。そして自分や家族に迫ってきている悲劇への予感。「ポーランドの国境では列車が窒息性ガスの中を通るようになっているという話もある。でもこの噂にはどこか根拠があるに違いない」。「これから降りかかってくることはこわくない。これまでも非常に辛いことを受け入れてきたし、もともと試練の前で反抗するような性格ではない。おそれているのは、私の美しい夢が成就できないことだ。自分のためでなく、実現できるはずの美しいことのためにおびえている」
こうした絶望の底でもベールは日記を書き続ける。「なぜこの日記を書いているのか私は知っている。ジャンが戻ってきた時に(ドイツ軍と戦うために義勇兵としてアフリカに発った)、私がいなかったらこの日記を渡してほしい。彼が不在の間に私が考えていたすべてを知ってもらわずに、私は消えてしまいたくない」
1944年3月8日、ベールは両親共々逮捕されドランシーの収容所に送られる(両親も強制収容所で死亡)。彼らの家の厨房を仕切っていたアンドレ・バルデューは、バイオリンと共に日記を預かり、その日記は、戦後パリに帰還してきたジャン・モラヴィエッキに手渡される。この日記のコピーは、ひそかにシモーヌ・ヴェイユなどに読まれ、大きな感動を与えていたという。2002年に、オリジナルはホロコースト記念館Mémorial de la Shoahに寄贈され、今年になって1冊の本に。60年以上経った今も、エレーヌ・ベールの声は、切々と響いてくる。(真)