民話や神話では、主人公が良い行いをすると妖精や神様が〈ごほうび〉に願いごとを叶えてくれる。どこの国でもその数は3つというのが相場のようだ。こうした伝承に倣ったのかどうか知らないが、第一次大戦に勝利したフランスも、イスラーム圏の植民地出身者の貢献に、3つの施設をつくって報いようとした。パリの大モスク、ボビニー市のイスラーム病院、そして同市のイスラム墓地である。
フランスの法律では公営墓地は宗教宗派を問わないことが原則だ。だから一部に特別の区画を設けているものはあっても、全敷地が〈ムスリム専用〉という公営墓地は存在しない。ボビニーのイスラーム墓地はこうした点でも例外的だ。「なぜ彼ら専用の墓地が必要なのか」と首を傾げる人もいるかもしれない。「異教徒と一緒に葬るべからずという戒律があるからだ」という説もあるが、もっと明解な答えは、実際に足を運んでみればわかる。
地下鉄5番線を終点で降り、バスで10分くらい行くと、工業団地の一画に中東の城門に似た正門と金色のドームを戴いた礼拝堂が現れる。右手にひろがる草地には卒塔婆のような形の質素な無数の碑(いしぶみ)が立っている。一番奥にある第2次大戦の戦没者の区画では、三色旗が翻る下で、緑の三日月が彫られた白亜の墓石が閲兵式の兵士のように毅然(きぜん)として並んでいる。7千あるといわれている墓はどれも北東を向いている。生前メッカに向かって日々の礼拝を欠かさない彼らは、死後も体の右側を下にして顔を聖地に向けて葬られなくてはならない。足を向けて寝てもならない。他教徒とない交ぜにされたら、墓石の向きとは逆もしくは斜かいに埋葬される故人が出てきてしまう。中華世界の〈風水思想〉のように、墓地の構造そのものが問われるため、専用の墓地が求められたのだ。
墓地の造営計画が持ち上がった当初、「laïcité(政教分離)」の問題から大きな物議をかもした。結局1934年に大統領令が出され、前述したイスラム病院の一部とすることで、1937年の開設までこぎ着けた。ドイツでナチスが政権を取り、フランスでも〈火の十字団〉などの極右勢力が暴動を起こすなど、各国でナショナリズムが勢いを増した時代に、こうした墓地が建設された意義は大きい。当時のフランスが見せた、多様性に対する懐の深さ、といっても言い過ぎではない。
「いまのフランスはどうか」と深く考えながら墓地を去ろうとすると、正門の近くに札が立てられただけの新しい塚があった。今年1月の『シャルリーエブド』襲撃事件で凶弾に倒れ殉職した警官アフメド・メラベさんのお墓だ。彼もまた他の人たちと同じように、三色旗を背に受けつつ、遠く聖地メッカを望んで眠っている。(浩)
Cimetière Musulman :
Chemin des Vignes, 93000 Bobigny