—母国語で読むということ〈ロシア語編〉—
正月3日、5区の警察署脇の書店の奥で、アリクさんは、中年の女性客にロシア語で新年のカレンダーを売っていた。風邪のせいか、声がかれている。軒先にはキリル文字の児童書が並び、看板には「YMCA Press」と書かれていた。ロシアの現代史を扱った本で必ず目にする名前で、ディアスポラの活字文化の伝説的な存在でもある。というのも、実はこの小さな出版社から世界の歴史の流れが大きく変わったからだ。
会社の設立は1921年、1917年に帝政が倒れ、1922年の10月革命で共産主義政権が樹立される前夜のこと。祖国での弾圧を逃れ多くの知識人や聖職者がパリに亡命した。そんな彼らが母国語で活動を続けられるように便宜を図ったのが、キリスト教青年会(YMCA)だった。こうして本国で発禁扱いの哲学書やロシア正教の神学書がパリで刊行されるようになり、その多くがロシア思想の古典となった。
40年来ここで働いているアリクさんは「ウチの全盛期は、やっぱり1970年代」と、天井の梁(はり)を指さした。ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの写真が掲げられていた。彼の『収容所群島』を出版したときは、わずか数週間で5万部も売れたという。
彼ら反体制派の作品は、ソ連本国では官憲の目を盗み、「サミズダート(地下出版物)」として出回っていた。アリクさんたちは、そうした冊子や原稿を手に入れて編集し、フランスにあったロシア語の活版所〈リーファー〉で印刷して、「タミズダート(国外出版物)」として西側世界に広めたのである。ソルジェニーツィンの自伝には、KGBの監視をくぐり抜けるため、自作の原稿をフィルムに接写して縮小し、モスクワのフランス大使館に持ち込んだというくだりが出てくるが、アリクさんによると、他にも様々な方法で彼らの作品が国外に持ち出されたという。本一冊を出版するために、多くの人が知恵を絞り、命の危険を冒した。
ソ連で抑圧されていた表現者たちにとって、アリクさんたちは世界に向けて穿(うが)たれた数少ない窓の一つだった。そして、そこを通して彼らがもたらしたソ連の内情は、共産主義政権を美化していたサルトルのような西側の左翼知識人の幻想を打ち破った。世界の世論は大きく変わり、やがて冷戦も終結した。たかが本かもしれないが、この歴史の大転換に活字が果たした役割は大きい。
だが、かつてブレジネフやKGBの向こうを張って文化を守り抜いたアリクさんも、さすがに風邪にはかなわないようだ。せき込みながら、「こりゃウォッカか日本のウィスキーで治すしかないな」と、話を切り上げた。それでも、カメラを向けると「私は透明人間だから」と固辞された。そう、「透明人間」とは、まだソ連にいた頃のソルジェニーツィンが、西側の面識のない、見えない助っ人たちにつけたあだ名だ。今はもう自ら本を出版することはないそうだが、アリクさん、あくまで筋は通す人なのだろう。(浩)
YMCA Press :
11 rue de Montagne-Sainte-Geneviève 5e
01.4354.7446
01.4354.7446
ed.reunis@wanadoo.fr
M° Maubert-Mutualité