9月末頃からフランス各地で奇妙な「尋ね人」の張り紙を見かけるようになった。一見したところ行方不明者の顔写真と連絡先、最後に目撃された場所が書かれているだけだが、なぜか「歌手」や「照明技師」などの職業の人が多いのだ。ふと、反体制的な芸術家を大量に検挙し粛清した南米の独裁国家にいるような不気味さをおぼえ、音楽や舞台の道を歩む友人たちの身の上を案じた。
だが、10月に入ってパリジャン紙などで、これらの張り紙の主は失踪しているわけではなく、新たな制度改革に反対するアンテルミタン(雇用と失業の期間が交互にあるスペクタクル関係従事者)たちの一部が行った茶番だったと知り、憤りをおぼえた。
現実と幻想の間仕切りを取り外すことは、いつの時代でも芸術家たちの関心事だった。存命中に自分の追悼記事を新聞に掲載した作家や、市街劇「ノック」で民家に勝手に上がって芝居を始め、警察沙汰になった寺山修司などの例がある。だが、寺山らが芸術や遊び心の中に現実を引き込もうと文字通り体を張ったことに比べると、今回の「行方不明者」たちは、逆に自分たちの金銭的なご都合のために、なりふり構わず空想(芸術とさえいえない)を人質にとった。そして、皆の関心を引こうと、人々の不安や善意を無為にもてあそんだ。爆発的芸術家、岡本太郎の言葉を借りれば、「卑しい!」のひと言につきる。
ここ10年近くの間、制度改革に反対するアンテルミタンたちを、イソップの寓話『アリとキリギリス』のキリギリスにたとえる声があった。一般勤労者が汗水たらして納める血税で彼らが好き勝手に歌って踊っているのはけしからん、といった批判である。だが、今回の貼り紙事件は同じイソップでも『オオカミ少年』のような危険性を帯びている。こうした軽薄な行動のせいで、世間の風当たりは、堅実な努力を続けるアンテルミタンたちに対しても強くなるだろう。また、本物の張り紙を掲げて行方不明者の消息を探す家族や知人らの藁(わら)にもすがるような思いも、「またアンテルミタンの仕業」と一蹴されてしまいかねない。
芸もなければ他人を思いやる心もない。日本の劇団員や音楽家のように、バイトで生計をたてながら活動を続けようという考えも根性もない。そんな御仁たちは張り紙で自ら宣言しているとおり、業界から行方不明になっていただいてもかまわないのではないか。芸術の秋、大根(役者)を目にするのは、お汁の中だけで充分だ。(浩)