—95年前の密使—
日本からの独立を目指し、約5万2千人の死傷者と4万6900人の検挙者を出した1919年の「三・一独立運動」。当時、日本の植民地支配に反旗を翻した朝鮮の人々の関心は、第一次大戦の戦後処理を決めるヴェルサイユ講和会議が開かれていたフランスに向けられていた。
今から95年前の3月中旬、偽造旅券で中国人になりすまし、ひとりの男が上海からパリにたどり着いた。上海のフランス租界で樹立された大韓民国臨時政府の外務総長、金奎植(キム・ギュシク)である。彼が帯びていた使命は、講和会議に参加し、1910年の日韓併合によって日本の統治下にあった祖国、朝鮮の独立を勝ち取れというものだった。
同じ頃のパリには、ベトナムの革命家ホーチミンなども潜伏していたが、彼らがパリを目指したのも、講和会議の牽引(けんいん)役だったアメリカのウィルソン大統領が掲げた「十四ヶ条平和構想」の中に、ひとつの民族はひとつの国家を持つべきだという「民族自決」の原則が含まれていたからである。
朝鮮独立運動家の多くが、極東ロシアや中国、アメリカなど国外でディアスポラを形成し、抵抗活動を続けていた1910年代、キムもモンゴルで活動を続けていた。そして、1918年に上海の臨時政府に合流。アメリカ留学の経験があり、韓日英中仏独語はおろか、ロシア語、モンゴル語、サンスクリット語も解す「超」国際派として、パリでの外交交渉を任された。
今も8区のシャトーダン通りの38番地には、「大韓民国臨時政府代表部跡」というプレートが掲げられている。キムはフランス到着早々からここを本拠として各国の代表団やフランス政府への嘆願を続けたり、フランス語で『La Corée libre』という月刊誌を発行し、日本による植民地支配の不当性や惨状を世論に訴えた。
日本の密偵は、キムの動きや、世界各地の韓国人コミュニティからパリの代表部にカンパの送金があったことを察知しており、当時の駐仏日本大使が東京の外務大臣に宛てた公電にも、キムらが講和会議の書記局に「日本ノ朝鮮統治ヲ悪罵シタル覚書」を提出したと報告している。
結局、キムらの講和会議への参加は認められず、西園寺公望の率いる日本代表団も朝鮮問題をあくまで「内政問題」として、彼らの嘆願をはねつけた。逆にこうした「不逞(ふてい)朝鮮人」を取り締まるよう依頼されたフランス官憲は、監視を強め、10月には上海租界の臨時政府にも閉鎖命令が下る。
「民族自決」の建て前とは裏腹に、列強諸国の利権ばかりが優先された講和会議。キムも失意のうちに8月にアメリカへ去り、パリに残された代表部も1921年に閉鎖された。彼らの祖国独立が実現するまでには、さらに四半世紀の歳月を待たねばならなかったのである。(康)
前列右端がキム・ギュシク。