ゾラの代表作の一つに、若い女優を主人公にした『ナナ』がある。高級娼婦でもあるナナの日常は色恋沙汰で忙しく、にぎやかな話し声や街の音に満ちている。そんな中にあって、読者を静かで平和な世界に誘ってくれるのが、ナナの別荘地でのいくつかのエピソードだ。
ある銀行家から田舎の別荘をプレゼントされたナナ。根っからのパリっ子には、田舎の自然は目新しく映る。ナナは「豪雨の中を、菜園や果樹園を見て廻り、一本一本の木の前で足を止め、野菜畑ごとに身を屈めては覗き込んだ」(川口篤訳)。イチゴ畑を見つけるなり夢中でイチゴを摘み始める様子は、いつも乱痴気騒ぎに明け暮れているナナとは大違い。その言動からは少女のような初々しさが漂い、パリではありえないような、どこか清らかな恋心に浸ったりもする…とはいえ、牧歌的な田園生活にうっとりしたのも束の間。パリから仲間たちがやってくるなり、お決まりの生活パターンが繰り返されることになる。「その夜の晩餐は、凄まじい賑やかさだった。みんなはがつがつ食べた」
ゾラの愛妻だったアレクサンドルも、ナナと同じくパリの下町生まれの下町育ち。やはり、田舎に対してはパリジェンヌ特有のロマンチックな憧れを抱いていた。ナナと同様、田舎でイチゴ畑を見つけたアレクサンドルは大騒ぎ。ようやく見つけた一粒のイチゴを、ゾラとふたりで仲良く分けあったというほほえましいエピソードも残っている。子供のころ南仏の自然に囲まれて育ったゾラにとって、そんな田舎に対する憧れは新鮮に映ったことだろう。ただ、若い恋人たちの食堂は、ナナの邸宅とは違って、家具もほとんどないようながらんとした空間。そんな中、ふたりはキャベツのスープやオムレツといったシンプルな料理を、むさぼるように口に入れた。(さ)