2月21日、ミサック・マヌシアン(1906-44)とその妻メリネ・マヌシアン(1913-89)がフランスの偉人廟パンテオンに祀られた。ミサックは第二次世界大戦中、ドイツに占領されたフランスを解放するための外国人レジスタンス闘士グループの指導者だった。彼らは、80年前のきょう2月21日、パリ近郊モンヴァレリアンでドイツ軍により処刑された。パンテオンの墓標には、グループのメンバーたちの名前も刻まれた。
ミサック・マヌシアンはアルメニア人虐殺の生存者だった。1915年から18年にかけて、オスマン帝国により150万人のアルメニア人が殺されたり、強制移動させられた虐殺で、父親を殺され、母親はシリアの砂漠の収容所で餓死し、ミサック兄弟姉妹は孤児となった。ミサックと兄はレバノンの寄宿舎で育つが、ミサックが18歳の時フランスへ渡り、南仏ヴァール県の造船所で働いた後「自由と革命の都」を夢見てパリに上京し、シトロエン自動車工場で働く。
労働者を必要とした20年代のフランスは多くの移民労働者を迎え入れた。多くの労働者が共産党に入り、党はフランス社会への同化を促すため、1925年から党員の言語別のグループを構成し(MOI=Main-d’œuvre immigrée)それぞれの言葉で機関紙を発行するなどした。マヌシアンはアルメニア語の機関紙の編集を担当した。アルメニア支援委員会の機関紙の編集も任されたが、ここで、やはりアルメニア人虐殺の生存者メリネと出会って恋に落ちた。
第二次世界大戦が始まると、マヌシアンはじめ多くのMOIの活動家たちがフランス軍入隊を志願した。フランスがドイツ軍に占領されると対独協力のヴィシー政権のもと、共産主義者の指導者やユダヤ人の検挙が始まった。フランス共産党は42年、 FTP(レジスタンス狙撃兵 Franc-tireur et partisans)を組織し、そこにMOIの活動家たちが参加(FTP-MOI)。43年からはマヌシアンがその指導者となった。
マヌシアンと、彼が率いたレジスタンスのグループについては「赤いポスター」とともに今日まで語り継がれてきた(冒頭の画像)。ポスターは1944年2月ナチスによって作られたもので、レジスタンス闘士たちはフランス解放のためのグループではなく「犯罪者集団」であると一般に認識させようとしたものだった。ポスターには外国人、共産主義者、ユダヤ人など10人を選んで顔写真を入れ、1万5千枚刷られ、フランス主要都市に掲げられた。
しかしネガティブ・キャンペーンのはずだったポスターは、外国人(マヌシアンは無国籍)でありながらフランスのために戦い命を落としたレジスタンの象徴としてマヌシアンらの名を後世に伝えることとなった。彼らはファシズムや人種による迫害などを逃れてフランスへやってきたハンガリー、ポーランド、スペイン、イタリア、アルメニアなどの出身者で、なかにはスペイン内戦が始まると義勇兵としてスペインへ赴き、共和国軍とともにフランコ独裁政権の軍と戦った人もいた。
ミサック・マヌシアンは、12歳のころから詩を書きはじめていて多くの詩を残している。ドイツにより死刑を宣告されたが、刑執行前に手紙を書く時間が与えられ恋人メリネに書いた手紙が遺っている。« 愛する孤児よ、私は数時間後にこの世にはいなくなる。午後3時に銃殺される。信じられないがもう会えない…»。ルイ・アラゴンは55年、この手紙をもとに詩を書き、レオ・フェレがそれを歌にした。最近でも人気グループ Feu ! Chattertonが歌い今日まで語り(歌い)継がれてきた(下のビデオ)。
パンテオン入りを決めたのはマクロン大統領だが、マクロン政権はつい最近、移民に厳しい法律を公布したばかり。左派からは、アルメニアからの移民労働者で無国籍だったマヌシアンを今パンテオンに祀るのは矛盾している、などと指摘されている。
France Télévision ドキュメンタリー映画「マヌシアンと赤いポスター」
アルメニア人虐殺、労働力を必要とし多くの外国人を迎えていたフランス、36年の左派統一「フロン・ポピュレール(人民戦線)」政権から、第二次世界大戦でのドイツ協力政府と、マヌシアンの生涯とその背景のフランスの歴史がたどれるドキュメンタリー。8月まで見られます。
www.france.tv/documentaires/histoire/5689254-manouchian-et-ceux-de-l-affiche-rouge.html