南仏アルル市のカマルグは、2万ヘクタールの水田が広がるフランス随一の米作地帯。そこで作られる「カマルグの米」は、よく食べる。てっきり大昔から作られているのだとばかり思っていたが最近、その歴史がそれほど長くはないことを知った。
フランスは、第一次世界大戦のために植民地ベトナムから歩兵や労働力として約5万人を動員したが、第二次世界大戦が始まる直前にも約2万人を動員した。まずは志願者を募るが、必要な人数に満たないため「18歳以上の男が2人以上いる家庭は、ひとりを労働力として提供する義務」を負い、従わないと家主を投獄、という規則のもと徴用した。志願者は1割か2割のみだったという。
動員されたベトナム人は、収容所から軍需工場などに送られた。あっけなく翌年6月にフランスがドイツに占領されると、4千〜5千人のベトナム人が本国へ帰されたが、1万5千人が敗戦の混乱のなか、フランスに足止めを食らう。フランスのヴィシー政権は、労働省の管轄のもとにMOI(main d’oeuvre indigène)という原住民労働者の部署を設け、ドイツやフランスの企業、国内の自治体などの必要に応じて彼らを「貸し出し」た。
このような状況で、カマルグにもおよそ1500人のベトナム人が動員された。塩田での労働を強いられる人も多かったが、1941年にはフランスはインドシナ領を失い(日本領に)、米が調達できなくなったこともあり、米作計画がすすめられた。カマルグではアンリ4世の時代から米作が試みられたものの、軌道に乗らなかった。
種をイタリアの米作地帯ピエモンテ州に買いに行き、政府は地主にベトナム人労働者を「貸し出し」、収穫された米を政府が買い取る、という形で米作が始まった。そして翌年の秋、50ヘクタールの水田から180トンの米を収穫した。これが、カマルグ米の起源だ。43年には600トン、44年には2200トンと収穫高は順調に伸び、フランスがアジアから米の輸入を再開する1960年頃には、1年に3回収穫できるようになっていた。
この史実が一般に知られるようになったのは、2009年に出版されたピエール・ドーム氏の著書『Immigré de force強制移民』*の存在が大きい。ジャーナリストのドーム氏自身、ある時、米の取材でカマルグの米ミュージアムを訪れ、ベトナム人が田植えをする写真を見て疑問を抱いたのをきっかけに、ベトナムとフランスで25人の元労働者に話しを聞き、調査を行った。それまでは一部の研究者の調査対象にすぎなかったのが、この本がきっかけとなり、アルル市の市長は2009年、米作功労者たちにメダルを授与した。90歳を超えた、かつてのパイオニアたちは笑顔で、時には亡くなった友人や、当時の差別、労働の辛さを思い出しながら涙ぐみ、メダルを受け取った。ドーム氏は「彼らが望むのは、フランスが国として、史実を認めること」とそのセレモニーで語った。(六)
*” Immigrés de force” Pierre Daum 著 Actes sud社