今年はボリス・ヴィアン生誕100周年(1920 – 1959)。演劇、コンサート、展覧会などたくさんのヴィアン・イベントが予定されていたのに、コロナのせいですべてキャンセルになってしまった(延期かもしれないけれど)。
とはいえ、ラジオのフランス・キュルチュール局の番組「ジューク・ボックス」は、2019年に放送したヴィアンの1時間番組をネットに再掲載。ナレーション少なく、ヴィアンが自作の歌を歌ったり、ヴィアンと彼のジャズオーケストラによる演奏、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、仲のよかったアンリ・サルヴァドールがヴィアンの歌を歌ったLe fêtardほか音楽が聴け、かつヴィアンの教育観を語る声、ジュリエット・グレコがヴィアンの死に際して贈った追悼の言葉など声を聞くことができる。フランス3局もドキュメンタリー番組を放送した。
そしてオヴニーは、2015年に取材した、ボリス・ヴィアンの最後の住まい訪問記を再掲載。
ボリス・ヴィアンが住んだ家に手紙を書いて、招待してもらう。
緑の扉に、〈エンジニア〉〈ミュージシャン〉の表札。詩人、小説家、戯曲家、翻訳家、歌手、ジャズ評論家、トランペット奏者、自動車レーサー…、書ききれないほどの肩書きを持つ、変幻自在の表現者ボリス・ヴィアンの家だ。高鳴る心をしずませて、呼び鈴を鳴らす。
迎えてくれるのは、ニコル・ベルトルトさん。ニコルさんは35年前にヴィアンの2番目の妻ウルスラさんと出会ってから、ヴィアンの遺稿などを整理し、著作権を管理し、この家に住みながら、ヴィアン関連書籍に前書きなども書く、ヴィアンの生き字引のような人だ。ウルスラさんが亡くなった今も、ウルスラさんが世界中からヴィアンの友人を迎えていたように、ヴィアンのファンを迎え入れている。
ボリス・ヴィアンは、33歳から39歳で亡くなるまでの6年間(1953~59年)ここに暮らした。戦後、若者文化が花開いたサンジェルマンの〈プリンス〉と呼ばれた彼だが、サンジェルマンに住んだことはない。そんなお金がないどころか、この家に住む前はクリシー大通り、7階エレ無し(ヴィアンのような心臓病持ちには特に辛い)の8平米の小部屋に住んでいた。「シャワーの上に物干を、テーブルの上にアイロン台を作る」など、パズルのように小さな空間を隙間なく埋め尽くす「才能」を自賛する著述がある。
最初の妻との離婚、小説の長引く裁判(『墓に唾をかけろ』発禁処分は70年代まで続く)、本は売れず、翻訳で細々と稼ぐ悶々とした日々。そんな頃、ロラン・プチやモーリス・ベジャールのバレエ団で踊っていたウルスラと出会い、この家に入居、結婚した。「アパートが借りられたのは、ウルスラがヴィアンより稼いでいたし、 彼女がスイス人で信用されたから」。金策も、ウルスラの両親からの協力を得て可能になったとニコルさんは言う。貧しいのに、お金が入ればスーツを新調し、愛車を修理し、スノッブであり続けたヴィアンは、彼が歌うシャンソンの世界そのものだ。
1953年2月に書かれた記事『アパルトマンを見つけてから』には、ジャック・プレヴェールが隣人だった、このアパルトマンへの入居の経緯が書かれている。「袋小路の奥に、奇妙な形のコンクリートの建物がそびえていた。薄暗い階段を2階半のぼると、深緑色に塗られた扉の前にいた 」 。「2部屋のアパルトマンはすべてが白くきれいで」「100m2のテラスもある、と聞いて気絶しそうになる」と続く。入居した晩から雨漏りで、ベッドの上で傘をさして夜を明かす…。新婚さんには何でも楽しいらしい。ごちそうさま。広いテラスはモンマルトルの有名レビュー小屋の屋根。赤い風車が見える。
幼少時から患っていたヴィアンの心臓病が、引っ越し後に悪化する。売れない小説や戯曲を書き続けるより、シャンソン、オペラ、ミュージカル、短い演劇などの新しい表現領域を開拓したのもこの時代だ。「40歳まで生きないだろう」と言っていた彼は、その言葉どおり39歳で死んでしまった。
短い人生だと感じていたがゆえに生き急ぎ、時代を先取りしたために生前には評価されなかったヴィアンの作品は、60年代に次々と発行され続け、68年、学生運動の年になると爆発的に売れ、芝居も上演されるようになった。今、時代はボリス・ヴィアンに追いついたのだろうか。 (六)
■ Visite
訪問希望者は手紙を書いて郵便、またはEメールで以下に送る。訪問の際には心付けをお忘れなく。
Cohérie Boris Vian : 6 bis Cité Véron 18e
contact@borisvian.org
ブログでは、ボリス・ヴィアン関連のイベントなども告知する。
http://borisvian.over-blog.com/
「ここはヴィアンの〈記念館〉ではなく、生きたコラボレーションの場」とニコルさん。日本からも『日々の泡』映画化のために監督が来たりするという。椅子も、お茶のトレーも、このテーブルだって、ヴィアンが使っていたものなのだ。
ヴィアンお手製の本棚の中央に、彼が作曲に使ったリラギター。ジャック・バラティエ監督の映画『想い出のサン・ジェルマン』では、これを弾きながら『イタリアの8日間』を歌い、その後、流暢な英語でインタビューに答えるシーンがある。他の多くのシャンソンと同じく、今日も世界で歌い継がれる名曲、『脱走兵』もこのギターで作曲された。