ペール・ラシェーズ墓地の歴史
パリ東部にある丘はルイ14世がよく散歩に来ていたのでモン・ルイ(ルイ山)と呼ばれていた。当時、ルイ14世の聴罪司祭は、イエズス会に属するフランソワ=デックス・ド・ラ・シェーズ神父だった。彼の弟、ラ・シェーズ伯爵が敷地を拡張し美化に努めたが、負債が重なり、売却後、最終的に1803年、セーヌ県(現パリ市)の所有地となる。
当時、パリの墓地はイノサン墓地(今のレアール地区)だけだったが、市内での埋葬が禁じられ、ナポレオン執政が郊外のモンマルトル、モンパルナス、パッシー、ペール・ラシェーズの4カ所に墓地を建設。病死や高齢者・新生児の死者は絶えず、1786年、あふれた遺骨を、14区のカタコンブに収納した。現在、地下に掘られた2キロの坑道に600万体の骨がみっしり積み上げられている。ペール・ラシェーズ墓地には1804年5 月21 日、初めて5 歳の少女が埋葬された。
パリジャンには、パリ東部のペール・ラシェーズ墓地は大衆、貧乏人の墓地という偏見があったようだ。パリ市はそのイメージを改善するため、モリエールやラ・フォンテーヌの墓石を他所からペール・ラシェーズ墓地に移している。でも年々墓は増えつづけ、1806年は49だったが、1830年には 3万3 千と急増。現在44ヘクタールの敷地に5300本の樹木が林立し、7万の墓が横たわっている。
クレマシオンcrémation
遺体の火葬はギリシア、ローマ時代にも行われていたようにフランスでも4世紀頃まで行われていたが、8世紀シャルルマーニュによって廃止された。フランス革命後あまりにも死者が多く、カトリック社会ながら、フリーメーソンやプロテスタントの働きが功を博し、19世紀末には本人が希望した場合、火葬が認められた。ペール・ラシェーズの火葬炉に初めて火がつけられたのは1889年になってから。キリスト教、ユダヤ教、イスラームと複数の宗教が存在するなかで、現在フランスではキリスト教会だけが火葬を認めている。