—母国語で読むということ〈アイルランド編〉—
パリの南部に位置する〈大学都市〉には、各国が学生会館を建てて留学生たちを住まわせている。大学の国際化などというと最近の現象のように思われるが、実はヨーロッパの大学は中世の時代から国際的だった。パンテオンのすぐ裏手にあるアイルランド人通り、ここには6世紀も前から〈アイルランド学寮〉という施設があった。これこそが、留学生のディアスポラの原点ともいえる。
アイルランド学寮ができたのは1578年のこと。ジョン・リーという神父が6人の神学生とともに寮を構えた。アイルランド人にとって史上初の在外コミュニティだった。それ以来、ここで生活しながら多くのアイルランド人の学生がパリ大学で学んだ。聖職者となって祖国に帰るものがほとんどだったが、中には教授となってフランスに骨を埋めた俊才もいたという。
セーヌ左岸のこの一帯には欧州各地から学生が集った。今も残る「カルチエラタン(ラテン語地区)」という地名のせいか、中世ではラテン語しか話されていなかったような印象を受けるが、エリザベス・モルネという歴史家の研究によると、中世の留学生たちは、〈アイルランド学寮〉、〈スコットランド学寮〉といったように出身地ごとの学寮に分かれて暮らしていたという。つまり彼らは、寮では母国語、大学ではラテン語、そして地元の人々とはフランス語と、3つの言語を使い分けて生活していたのだ。今日の留学生のように生活のすべてをフランス語で行う必要もなかったせいか、フランス語の習得をおろそかにする者もいたようだ。だから、地元の人たちからの評判も、あまり芳しくない。フランス語を全く理解しない学生が暴れて飲み屋の主人とトラブルになったなどという記録も残っているという。
16世紀から18世紀にかけて留学生のベースキャンプとなった各国の学生寮だが、神学生が寝泊まりする教会施設でもあったため、フランス革命では没収の憂き目にあう。スコットランド学寮にいたっては恐怖政治時代に監獄として使用された。しかし、1805年にナポレオンはイングランドとスコットランドの学寮をアイルランド学寮に統合させた形で復活を認める。その後、戦争のときは野戦病院となったり、第2次世界大戦の後はポーランド学寮として使われたりしながらも、アイルランド学寮の建物は存続し続ける。そして2002年には〈アイルランド文化会館〉として両国の交流に新たな1ページを開いた。図書館があるのはもちろんのこと、アイルランドの文化を紹介するイベントが催される。だが、かつての学寮としての気質も残っていて、今でもアイルランドからの留学生や研究者、アーティストたちが暮らしているという。
一般に開放された広い中庭の円卓で、学生たちが今日も談笑している。同じ場所で何世紀にもわたってこうした光景が繰り返されてきたのかと思うと、妙にこの街の持つ奥行きの深さに心を打たれた。(康)
Centre Culturel Irlandais
Adresse : 5 rue des Irlandais, 75005 parisTEL : 01.5852.1030