母国語で読むということ〈ベルベル語編〉
アルジェリアで働いていた時のこと、米国のTVドラマの主人公そっくりの金髪碧眼(へきがん)の青年が事務所にやってきた。名前をきくと「バシールだ」という。自分が抱いていた「アルジェリア人=アラブ人」という常識が一瞬にして崩れた。「僕たちはベルベル人だからね」と、彼はそばかすだらけの顔で笑った。
かつて「ヌミディア」と呼ばれたアルジェリアではローマ文化に近い独自の文化が栄えていた。7世紀からアラブによる支配を受ける前から北アフリカ一帯に住んでいたのがベルベル人たち。古くは聖アウグスチヌス、最近ではサッカー選手のジダンなどが有名だ。
「ベルベル語はアラビア語と全く異なり、そのアマジグ文字は3千年以上の歴史があると言われています」と語るのは、20区のメニルモンタン駅の近くにある「ベルベル文化協会(ACB)」設立者で代表のシェリフ・ベンブリッシュさん。彼もベルベル人の地として知られるアルジェリアのカビリア地方で生まれ、幼い時にフランスにやって来た。ACBを設立したのは1979年のこと。アルジェリアで半年間の兵役に就いたときに感じた疎外感が理由だった。
アラブ化の強制はいつの時代でもあった。フランス統治下では町ごとにすべてのベルベル人を「M」や「B」などで始まるアラブ風の苗字に改名させる政策も行われた。1962年の独立後もフランス文化から脱却しようとした政府がアラブ化政策を強めた。ACBの設立の翌年、アルジェリアで起こった「ベルベルの春」では、文化の独立性を訴える一連のデモが政府の鎮圧を受け、百数十人の死者を出したとされている。
ACBはフランスでベルベル文化を守り、広めていこうと展覧会や講演会、語学や演劇の教室といった事業を行ってきた。加えて、子弟のための補習授業や、法律行政相談、病院への付き添い通訳などといったコミュニティーの生活ケアもACBの活動の核となった。もともと山間のカビリア地方などでは「出稼ぎ」の伝統があり、また植民地時代には、西洋とアラブの「中間者」として扱いやすい人材としてベルベル人が優先的に受け入れられる傾向があった。統計では「アルジェリア移民」とまとめられれてしまうが、彼らはその中でも多くの割合を占める。今の心配はコミュニティーの高齢化だ。子や孫はフランスで成功しているが、一緒に住めない。かといって、故郷に帰っても誰もいない。そんな孤独な老人が結構いるそうだ。
「自分の原点を大事にしないと他者の尊厳も認められないから」というシェリフさんがこんな話をしてくれた。ある日、ひとりの青年がアマジグ文字である女性の名前を書いてくれと協会に来た。シェリフさんが書いてあげるとうれしそうにこう言った、「亡くなった母の墓に自分たちの文字で名前を刻んであげたかったのです」と。「アイデンティティ」とは何かと深く考えさせられる話である。(康)
Association de Culture Berbère :ルベル文化協会)
37 bis rue des Maronites 20e 01.4358.2325
www.acbparis.org/
ベルベル人のシンボルの旗。