亡くなるまでレジスタンスの姿勢を貫く。

若き日のレイモン・オーブラックとリュシー。
若き日のレイモン・オーブラックとリュシー。
 4月10日、レイモン・オーブラック(本名レイモン・サミュエル)がパリ市内の病院で亡く なった。97歳。2007年に94歳で亡くなった妻のリュシー共々、第2次世界大戦中のレジスタンス運動のヒーローとして知られている。 
 レイモン・オーブラックは、1914年、オート・ソーヌ県ヴズール市の裕福なユダヤ人の商家に生まれる。バカロレア取得後、橋道路建設系のエンジニアを生み出す名門校Ecole nationale des ponts et chausséesに進む。世界大戦が勃発し、将校として徴兵される。1939年、パリで知り合ったリュシーと再会し ディジョンで結婚。翌年6月ドイツ軍の捕虜になるが、果敢な妻の助けで脱走。「私たちの結婚は深い理解に基づき、常に幸せでした。決断する時はいつも二人でしたものです」
 二人はリヨンに移り、レイモンはエンジニア、リュシーは教員の職に就く一方、反ナチス及びヴィシー政権打倒を目指す「リベラシオン」という名の組織に加わる。1942年夏、レイモンはこの組織の、「秘密軍隊」と呼ばれる武装軍団のリーダーになる。すでにリヨンを本拠としてクラウス・バルビー率いるゲシュタポのレジスタンス闘士狩りが始まっていた。1943年3月、レイモンは逮捕されるが2カ月後に仮釈放。同年6月21日、リヨン郊外カリュイールで、レジスタンス運動統一の命を受けてロンドンのドゴール将軍から派遣されたジャン・ムーランとレジスタンス闘士の秘密会合が開かれた。その現場をゲシュタポが襲い、ムーラン、レイモン、他の同志たちも逮捕され激しい尋問、拷問を受ける。7月8日、ムーランはドイツに移送中の列車内で死亡。レイモンは、10月21日、またしてもリュシーが組織した作戦で救出される。
 このカリュイール事件に関しては、誰が裏切って会合の場をゲシュタポに密告したのかまだわかっていない。1983年バルビーはボリビアで逮捕されてフランスに送致され、1987年リヨンで「人道に反する罪」で終身刑の判決を受けるが、獄中で書いた手記の中でレイモンが密告者であったと指摘する。この手記は、1997年に発行された、オーブラック夫婦に対し批判的なジェラール・ショーヴィ著『Aubrac, Lyon 1943』の中で初めて公開される。レイモンはバルビーの指摘は中傷誹謗
(ひぼう)であるとし、リベラシオン紙の編集部で歴史家たちによる討論会を提案する。
 1943年の救出作戦以来、オーブラック夫婦は地下に潜伏し、翌年ロンドンに渡る。そこでレイモンは、両親がアウシュヴィッツ強制収容所で殺害されたことを知る。ドゴール将軍から要職に就くことをすすめられるが、落下傘部隊の兵士としてフランスに戻る。戦後は、マルセイユで不発弾撤去作業の指揮を執ったり、共産党の依頼でチェコスロバキアなど東欧の戦後再建に力を尽くす。1958年から76年まで、レイモンは、独立間もないモロッコの技術顧問としての仕事に全うする。話は前後するが、1946年夏、当時北ベトナムの大統領だったホーチミンがオーブラック夫婦の家に滞在し、そのとき生まれた娘エリザベットの代父になるなど、親交が深まる。ベトナム正規軍の戦車がサイゴンに侵入した1975年4月30日、レイモンはハノイ市にいた。「私も通りに出た。みんな外に出ていたが、群衆は静かで、和やかだった。こんなことは初めてだった。平和、そうだこれなんだ」と書いている。
 晩年は夫婦揃って高校の授業に出かけて行き、レジスタンスを語り伝えることに多くの時間を割いた。また昨年7月14日にはバスティーユ広場で、ロム、移民、失業者が社会悪の源であることを公言してはばからないサルコジ政権を、レイモンは96歳とは思えないエネルギーで糾弾し、「政教分離で民主的、そして社会の連帯を原則とする共和国」を説いた。
 4月16日アンヴァリッドで、サルコジ大統領主宰のレイモン・オーブラック追悼式が行われたが、遺族はサルコジ大統領の演説を拒否し、式が一般公開されることを要求した。(真) 

Raymond Aubrac