映画の未来はここにはない。”Lumiere Silencieuse”

 「メキシコの若き鬼才」カルロス・レイガダスはご存知だろうか。2002年にカンヌで長編第一作『Japon』がカメラ・ドールを獲得。2005年には二作目の『Bataille dans le ciel』がコンペ部門に初登場。続く本作『Lumière Silencieuse』も今年コンペ入りを果したうえに、審査員賞まで受賞。どうもカンヌに愛される男らしい。
 『Lumière Silencieuse』の物語はシンプルだ。妻以外の女性に思いを寄せる男が主人公。とはいえキリスト教再洗礼派メノナイトの信者なので、姦淫への罪の意識はより重め。今回も噂のレイガダス節は炸裂だ。台詞は控えめ、カメラは長回し。雄弁な自然の数々に、寄り気味の人の顔、顔。そして小市民が太刀打ちできない謎を、結局は神のように語ってしまう大胆さ。そう、一言でいって大胆不敵な監督なのだ。私の場合は処女作でこの大胆さに打ちのめされたが、二作目でだまされている? と感じ、そして今回の三作目ではついに答えが出た。映画の未来はここにはない、と。通好みの色気のある映像でだまされやすいが、演出は単純。素人役者を使い不自然さをカムフラージュ、重要な物語の進行は決定的な出来過ぎ台詞に頼る。お、なんだか河瀬直美のグランプリ受賞作『殯(もがり)の森』作戦に通じるぞ。カンヌの賞は天気予報ほどにも当てにならないということだ。彼らには逆立ちしたってクローネンバーグやファティ・アキンのようなフィクションは撮れまい。(逆は至極簡単だろうが)。しかし、本当は私だって、レイガダスや河瀬のような、命を削って映画を撮っている(多分)人格者ですらある監督らを心から応援したいのだ。でも悲しいかな、誠実さだけでは映画は撮れない。まあ、そうはいっても彼らの作品が醸し出す圧倒的な色気だけは凄い。大股開いて「カモン!」と言うだけで、見たいと思わせてくれる色気はまるでゼロの昨今のフランス映画衆には、嘘の色気でもいいから少しは見倣ってほしいとさえ思う。(瑞)

Valeria Bruni Tedeschi (1964-)

 時に弱々しく、時に攻撃的に変化するヴァレリア・ブルーニ=テデスキのかすれ声は、好むと好まざるとに関わらず、耳に引っかかり離れない。その声質に「女の性(さが)」が露出しているようで、いつも彼女が登場すると、興味深く見てしまう。
 トリノの資産家の家に生まれたブルーニ=テデスキは、9歳の時に、極左武装集団「赤い旅団」の勢力が強まる祖国から、危険を逃れるため家族でパリに移住した。アマンディエ演劇学校で学んだ後、師のひとりであるパトリス・シェロー作品『愛する者よ、列車に乗れ』などで、本格的に映画女優の道を歩き出すようになる。
 1994年に初主演作『おせっかいな天使』でセザール賞の最優秀有望若手女優賞受賞後は、さらに活躍の幅が広がる。代表作に『ふたりの5つの分かれ路』『不完全なふたり』など。また語学が堪能なので、ハリウッド作品に出演したりと、国境を超えた活躍ができるのも強み。監督業にも熱心で、『Il est plus facile pour un chameau…』、『Actrices』 と、自伝的要素も加えた悲喜劇は批評家からも高い評価を受けている。現在、盟友であるノエミ・ルヴォヴスキ作品『Faut que ça danse!』やエルマンノ・オルミら三巨匠によるコラボレーション作品『Tickets』と、出演作が相次いで公開中だ。(瑞)


●Nous, les vivants
 スウェーデンのCM監督として活躍後も、映画のために稼いだ金でスタジオを建て、緻密な設計図に基づく異色の小宇宙を構築する根性の人、ロイ・アンダーソン。彼の7年ぶりの新作は前作『散歩する惑星』同様、主人公という野暮なもの(?)には寄りかからず、人々は入れ替わり立ち代わり登場しては消えていく。精神科医、ギャル、ホルン奏者…。ある者は「誰も理解してくれない」と絶望の歌を歌い、ある者はロッカーとの結婚の妄想(傑作シーン)を反芻する。タチやカウリスマキを彷彿させる危うい笑いの奥に、残酷でも懐の広い人生モザイク。私などは監督の心意気だけで、泣ける映画ではないはずなのに涙腺が緩む。(瑞)


 

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