1878
5月5日から10月31日までの期間中、3200万人が訪れた。予想外の1000万金フランという莫大な利益をもたらした。世界のさまざまな都市(1881年ミュンヘン、1884年ボストン、1888年メルボルンなど)で、国際博覧会が開催されてきたこともあり、パリもそれに競うかのように盛大な万博を実施した。そのうえ、1889年はフランス革命100周年という記念すべき年にも当たり、国家、パリ市のほかに銀行家や実業家も多額の出資を行って、この博覧会の運営を支えた。
シャン・ド・マルスには、科学・産業・美術などを紹介するギャラリーが並んだ。中でもGalerie des Machinesではフランスをはじめ各国の機械が展示され、最新技術、情報交換の場となった。美術のギャラリーでは、当時まだ新しかった写真の展示が注目を集めた。
パリまでの往復切符一律25%割引をうたったパリ・リヨン・地中海鉄道のポスター。
入場者動員の大きな力となった。
宝石、革製品など手工芸品の展示会場。
エッフェル塔内で毎日フィガロ紙の号外が印刷されていた。
メルシエは、直径5.5mの巨大な樽(7万5000本の容量)でシャンパンを振舞い、その名を世界に広めた。
カンボジア館。
ギュスターヴ・エッフェル(1832-1923)は「今までに見たこともない建物を」と、1887年から塔の建設に着手。そして、1889年5月6日当時のカルノー大統領と11万人が見守る中で、除幕式が行われた。
エッフェル塔の建設をめぐって、市民から大統領へ「頭の上に倒れてくるに違いない、怖いので中止してほしい」との懇願書が殺到。当時の技術で、300メートルの鉄骨の塔が建てられるとは信じがたかったからだ。さらには、シャルル・ガルニエ、モーパッサン、ヴァレリーなどの著名人が合同で当時の新聞〈Le Temps〉に “l’inutile et montrueuse tour Eiffel” と発表し、フランスがこの万博で恥をかくと抗議。その表現に対しエッフェルは同誌で「塔が仕上がった時に、抗議した者たちは後悔しないだろうか?」と返答。そして、現在では…エッフェル塔はパリのシンボルに。
工場で錬鉄製の部品を作り、それを建設現場で組み立てるという、いわばプレハブ工法が採用されたため、工事期間は大幅に短縮された。鉄骨部分の組み立ては1887年7月1日から始まり、わずか22カ月で完了した。落成式は1889年3月31日だった。
エッフェル塔と並んで話題を呼んだのは、エコール・ミリテール前に建設された〈Galerie des Machines〉。幅115m、奥行き420m、高さ45mの、鉄骨とガラスによる建造物。総工費は743万フランでエッフェル塔の約5倍!
当時の最新機械を一堂に集めた。