ジョスパン首相が60年代から80年代までトロツキスト系グループ・ランベールに属していたと、6月6日以来ル・モンド紙が暴き立てている。彼が20代に洗礼を受けた一つのイデオロギーを原罪のように。2002年大統領選挙の前哨戦開始?
95年ジョスパン首相は「トロツキストであったことなど一度もなく、多分兄オリヴィエと混同した噂にすぎない」と否定。97年には「人は隠しているものではなく行動自身である」とマルローの言葉で彼の過去についてさらに謎を深めた。が、今回、議会でも白状を迫られたジョスパンは、「60年代にトロツキスト運動の一つに関係した」と過去の片鱗をのぞかせた。
冷戦時代、当時の左翼政党、労働者インターナショナル仏支部 (SFLO : 69年社会党に) にも、スターリン主義に染まった共産党にも反発したトロツキストたちはインドシナ戦争、ハンガリー動乱、アルジェリア戦争と反植民地・帝国主義闘争を支援。65年、第四インターから除名されたインテリや労働者を中心にトロツキスト、ピエール・ランベールがアンテルナショナリスト・コミュニスト連合(OCI*)を結成。
当時20歳のジョスパンはエリート校、国立行政学院(ENA)に在学。友人を介しランベール・グループ創立者の一人、ボリス・フランケル夫妻に紹介され、粒よりのエリートとしてのトロツキズム教育を受けるようになる。ENA卒業後、外務省に入ったジョスパンは、公務と平行して密かにランベール・グループの革命研究細胞 ”アミカル” の中心となり、”ミシェル”という名で通っていた。68年五月革命の学生たち、毛沢東派や”ゴーシスト” (新左翼派) をトロツキストたちはプチブルと軽蔑し、ますますセクト化していった。
71年ミッテランが書記長となり改良主義の傾向を強めた社会党へのトロツキストの潜入工作が開始される。その潜入工作員になったのが “ミシェル”だったのである。社会党内でも彼の優秀さと実行力がミッテランに買われ、ジョスパンは、81年ミッテラン大統領就任時に社会党書記長後任に選ばれる。が、87年までランベールとの関係を絶たなかったというジョスパンの二面性が問題になっている。
しかし、なぜいままで嘘をついてまでトロツキストとしての過去をひた隠しにしてきたのか。社会党内では「ジョスパンとトロツキズムとの関係は隠しておきたい内縁妻みたいなもの」と皮肉る者や「いまどきトロツキーの名を知っている投票者が何割いる?」と楽観視する者も。
50年以上におよぶ政治生活の中で、ミッテラン前大統領はナチス占領下ヴィシー政府に協力した過去があり、シラク大統領は若いころ共産党機関紙ユマニテを売って歩いたこともあるというし。ジョスパンの過去は過去で、今日のジョスパンに達するのに必要な基盤となってはいないか。「知的進歩の過程」と彼がいうように。学歴だけでは主義・思想は生まれないということだろう。(君)
*81年Parti Communiste Internationaliste(PCI)と改名、91年Parti des Travailleurs(PT)となる。
