モーリス・パポンの逃亡劇。


 ヴィシー政権下、ボルドー地方でユダヤ人約1600人を逮捕、監禁した”人道に反する罪”の共犯容疑で、98年4月2日ボルドー重罪院で10年の禁固刑が下ったモーリス・パポン元ジロンド県総務局長(89歳)。
 パポン被告は破毀院に上告し、この10月21日の破毀院審議の前日に刑務所に出頭するはずだった。が、パリ郊外の彼の自宅は、警官が警備に当たっていたのにもぬけの殻。被告は97年10月重罪院開廷の翌日から高齢と心臓疾患を理由に身柄釈放の特別扱いを受けていた。そのため警備隊員はパポンの警備に当たるが監視はしないという職務執行法の隙をねらい、10月11日、彼は娘と孫娘を連れて車でスイスに逃亡。パスポートは元レジスタンス活動家ド・ラ・ロシュフーコー氏から借り、偽名でホテルを予約していた。
 パポン被告は、破毀院審議の前日に被告を刑務所に拘置するという強制措置は公正な裁判でないとし、欧州人権裁判所(仏は93、98年に同措置で有罪に)にスイス ”亡命中” に訴える準備をしていた。ところが彼の逃亡を手伝った作家ド・ボーフォール氏がパリ16区の公衆電話から数回スイスに通話したことから、10月21日パポンのいたグスタッドのホテルが割れ、同日夜、スイス連邦警察が “逃亡者” を逮捕、翌日ヘリでパリ近郊のフレンヌ刑務所病院に送還し、11月5日にパポンは同刑務所の独房に移された。破毀申立てをしていながら出頭を拒否したため、禁固刑が確定したわけだ。
 彼が逃亡していなければ恩赦請願の道も残されていた。が、95年に、ヴィシー政府がフランス国家であることを初めて認めたシラク大統領にとって、”逃亡者”パポンの恩赦は対象外に。万策尽きたパポンは、欧州人権裁判で仏刑法の問題点を槍玉に上げて最後まで闘う覚悟だ。
 ナチに協力し”人道に反する罪”で裁かれた元役人4人のうち最後の被告パポンはユダヤ人被害者・遺族の提訴以来18年後に下された判決を、彼の著書の中で “ドレフュス裁判”とも”キリストの受難”とも喩えている。”亡命” 先からの声明文では「名誉を守るために私は亡命を選ぶ、フランスの偉人たちに倣って」と、ジャージー島で亡命生活を送ったヴィクトル・ユゴーに自分をなぞらえる。Sud-Ouest紙(10/20日付)掲載の彼の手紙には「私を罰することはフランスそのものの有罪性を立証すること。(…)ドゴール大統領に仕えた者を裁くという最高法廷の卑劣さ」とパポンは、ドゴール政権で要職を務め、レジオン・ドヌールも受勲した地位を盾に、57年前の事実にどこまでも背を向ける。パポン裁判法廷で被告側証人の一人、セガンRPR元総裁が「もうたくさん ! ドゴールを裁くのは」と怒った姿は、国民の記憶に複雑な影を落としているのではないだろうか。
 1945年高等法院はペタン元首に死刑宣告後、終身刑を、1998年重罪院はヴィシー政府の元高官パポンに10年の懲役刑を下すことはできたが、ヴィシー政府そのものを裁くことはできなかったのである。(君)  


 

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