Cさんは87歳。画家のご主人(木原康行氏)と共にパリに来たのは49年前のこと。彼は少年期の病が元で35歳で聴覚を失ったが、銅版画界では希に見る創造性をもって数々の傑作を遺し、2011 年に亡くなった。未亡人となったCさんは、次女が待っている日本に帰ろうか、パリに居続けようか…、パリを自分の街として生きてきただけに悩みは深い。
一人暮らしは寂しいことと思いますが、どのようにお過ごしですか?
1970年、幼い2人の娘を親に預けたまま渡仏した私たちは、心が傷み、1年後パリに呼び寄せました。4人家族の生活を支えた私は、画家でありながら、あらゆる職種につきました。主人は独学で仏語の筆談を可能にし、銅板にビュランで彫る版画技術を習得。繊細な抽象作品は世界の版画愛好家を魅了し、コレクターと最良の画廊に恵まれて作品のほとんどは彼らの手に渡りました。日本にいたらこのようなチャンスはあり得なかったでしょう。遺作は、すべて日本とパリの美術館に寄贈し、ほっとした時期、70年から死の直前まで、彼が悩み思考した真情を綴ったメモを発見。私はそれを 『パリ・ノート』として2012年自費出版しました。2年後の14年に『沈黙の環』と改題し緑風出版から出版。その後の3年間は、ヨーロッパ、アラビアの物語を構想、昨年パリのカフェを想い出風に加え『コーヒー・ストーリー』を自主出版。画と文章を書きまくった一人暮らしの7年間、真新しい自由を私に遺していった伴侶の遺した言葉「一人で自分を探せ」に支えられて生きてきました。私は彼に「ありがとう」を連発しています。日本に住む次女の「元気なうちに帰って来て」の催促に重い腰を上げては、アパートの片付けを始め、アパートの売却という大仕事が頭にこびりついたまま。しかし、どこで媚薬を飲んだのか、若手テノール歌手Aの肉声に心酔。いつまでも生きていて彼の歌声を聴いていたい願望が止められず、遠距離のコンサートにも鳥になった思いで駆けつけるという、何年も続く、かなり重症の病で帰国はしばらく迷宮入り。人間を老いさせるのは歳月ではないと見栄をはり、次の彼のコンサートをグーグルで検索する。一体、帰国はどうなっているの?──自問自答、そのうちに…。