1943年東京に生まれたジュフロワ総子さんは、62年、上智大学仏語科に入学。翌年サンケイスカラシップにて1年留学後、結婚、出産。84年駐日仏大使館付文化参事官として日本に赴任中の詩人で美術評論家アラン・ジュフロワ氏(当時55)と出会い「この人こそ私の求めていた人!」と、彼の任期終了後、渡仏。「自分勝手な母親でした」と人生を振り返って語る。
フランスに来てから1年後、2人の子ども(9歳と15歳)をパリに呼び寄せました。とはいえ私は子供をほったらかしで、惚れた男との生活に夢中でした。夫のアランが歩んできた濃厚な人生に私が追いつくのは、アランという急行列車の最後のワゴンに駆け足でやっと乗り込んでから。とはいえ、さらにハーハーと息を切らしてフォローするといった感じでした。彼は椅子に座って黙々とものを書く人でなく、激しく行動的で、夜通し仲間と酒を飲み交わしながら議論し合う人で、非常に不規則ながら自由な生活。パリでの生活は無一文、二人の子どもを抱えての異国生活、糊口をしのぐために仕事をみつけなくては…そんな私を見かねて89年、長年にわたるフランス生活を経験していた友人が、デザイン会社の社長に推薦して下さり、採用されました。同時期にスイユ出版社から、日本現代文学叢書出版の企画が転がり込み、村上春樹など、日本の現代作家紹介の仕事にかかわることになり、92年、勤めていた会社を離れ、自身のデザイン会社を創設しました。ビジネスのイロハも知らない私が自分の会社を始めたのは、童話「かちかち山」のたぬきも驚くような泥舟を漕いで沖にまで漕ぎ出す、という感じでした。ところが、2011年東日本の震災と福島の原発事故の問題でビジネスをやる気が急に失せてしまい、2年後会社を廃業。夫も往年のエネルギーを失い衰弱していたので、二人で静かな余生を送ろうと考えていたところ、2015年暮れに夫が逝き、今は彼の残した膨大な資料を前にぼう然としています。昨年秋に渋谷で、アラン・ジュフロワを偲ぶ「詩人とは」という展覧会を開き、彼と共に生きた人生を、彼の「専門家」としてではなく、単なる未だ亡くならない人(未亡人)として初の試みにチャレンジしてみました。