Mai 68、5月革命。

1968年、フランスに吹き荒れた抗議の嵐。

Mai 68、5月革命。

 

「我らこそが権力だ」 国立美術学校で開催中”Images en Lutte ” 展から。

ナンテール、カルチエ・ラタン。

 直接大きな運動に結びついた動きは、パリ大学ナンテール校から始まった。社会による性的抑圧からの解放をめざした精神分析家ヴィルヘルム・ライヒの理論や性に関する会合に出た学生たちは、22時以降は男子が女子寮に入れない学内規則(その逆は可)を大学当局による性の抑圧だと感じるようになった。そして1967年3月、女子寮を占拠。ライヒの会合から2日後に29人の学生が学内居住区から追放されたとき、学生たちは大学側が学生のブラックリストを作っていると不信感を募らせ、学内での政治デモ禁止と警官の介入に反発。翌年3月22日、ベトナム戦争反対デモをした学生が拘束されたことに抗議し、大学の事務局を占拠した。このときのグループが社会学部の学生ダニエル・コーン=ベンディットを中心とした、「3月22日運動」だ。

学生運動から、1千万人規模のストへ。

 5月2日、学生たちが反帝国主義デーを開催したので、学部長は学部の閉鎖を決めた。そのため学生たちが運動の場をソルボンヌに移したことが、学生運動がカルティエラタンに広まるきっかけとなった。3日、ソルボンヌでナンテールの学生たちを支援し運動を拡大するための集会があった。大学側は警察に学生の排除を要請。衝突はカルティエラタンに広がり、最初のバリケードができた。催涙ガス、投石などの衝突で600人弱が不審尋問を受け、逮捕者も出た。10日夜から11日にかけては最初の 「バリケードの夜」だった。機動隊と学生の激しい衝突が起き、重傷者367人、逮捕者460人が出たが、学生運動は地方にも飛び火。労働者のストと工場占拠も、学生の動きとは別に各地で起きた。賃金の低下、失業者の増大で、労働者の不満は高まっていた。

13日、各種組合の呼びかけでゼネストが起き、主催者計算で100万人、警察計算で20万人がパリに集まった。5月のフランス全土のスト参加者は1千万人と空前の規模で、国全体が2週間ほど機能不全に陥った。5月25日、組合はポンピドゥー内閣と事態収拾のための交渉に入り、2日後に最低賃金 (SMIC)の35%アップなどの合意に至った。パリのグルネル通りで会合が開かれたことから 「グルネル協定」という。しかし一部の労働者からは拒否された。

ドゴール派の巻き返し。

 29日、ドゴール大統領がポンピドゥー首相にも行先を告げず、24時間消息不明になった。旧知の軍人との密談後、30日にバーデンバーデンから戻ったドゴールは、国民議会を解散し、総選挙で民意を問う作戦に出た。この発表を受けて同日、ドゴール支持者たちがシャンゼリゼで、主催者計算百万人、警察計算30万人の大規模なデモを行った。ドゴール派の巻き返しが始まった。政府は極左組織の解散令を発令し、選挙期間中のデモを禁止。ソルボンヌ、オデオン劇場、国立美術学校などから占拠者を追い出した。6月30日の第2回投票で、ドゴールの政党、共和国民主連合(UDR)と、ジスカール・デスタンが率いる独立共和派からなる与党が過半数を獲得し、抗議運動は終息に向かった。

 5月革命はマルクス主義者、アナーキストなど、異なる左翼思想による抗議運動が集結したもので、ひとつの政治的方向でまとまることはなかった。身近な問題から発して、社会通念や消費社会、資本主義社会を問いただす意識革命だったといえる。(羽)

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