とし子さんは、1943年東京生まれ。4歳の時、戦災を恐れた母親と伊東に疎開、父は戦死。戦後、東京に戻る。料理が好きだった母は、親戚が営んでいたレストランを手伝いながら、娘2人を育てつつ祖父の面倒をみた。母は妻を亡くした男性と同居、とし子さんは私立校に入る前にその義父の籍に入籍。銀座の和光に就職。24歳で退職し、料理の知識は図書館の本で学ぶ。
渡仏計画にご両親は反対しませんでした?
とし子:在仏期間を1年と約束したのと、出発の10日前に知らせたので、母は私の将来を心配し悲しむひまもなかったのでは。来仏したのは68年騒動直後だったので、今のフランス社会の状況に似ていました。
16区のレジデンスに住む高齢女性の一種のオペールとして夕食・買い物をし、料理のCAP(職業適性証)を得、ホテル専門校にも行けました。某日系ホテル完成前に人事課に直接出向いてその場で採用されました。ホテル内のフランチ・レストランでも日本レストランでも、当時日本から来る料理人はフランス語が分からなかったので、日仏料理人の橋渡しをしました。
その後、フレンチ・レストラン十数軒、FLOチェーン、オルリー空港付近のビジネスホテルでも働きました。パリ滞在8年後に両親が別居、数年後に虚弱体質の妹が亡くなり、パリで生涯を送る決心をし、85年に帰化しましたのです。その後は滞在許可証の問題もなくなり、子供もいないので、フランス人の知人のアドバイスで不動産業を始めました。日本人留学生に次いで観光客、海外赴任家族も増えていました。家主との交渉や賃貸契約などで忙殺されましたが、帰国した方の中には今も友情が続いている人もいます。
その後、オフィスの半分を料理教室にし、日本人滞在者に料理を教えて楽しみました。6年前、定年で閉業。将来のことを考え、住居をヴィアジェ契約で売却しました。ヴィアジェ契約なら終身その住居を使え、頭金を受け取った後、残金は終身年金として支払われます。支払いが途絶えたりすると契約が無効になるので購入者は損しますが、購入者の死後も子孫が支払いを継続します。
遺産は子孫に遺すというのが常識でしたが、年金だけでは暮らせない今日、ヴィアジェ契約をし、安心して余生を送る終身年金生活者が増えています。