Q:フランスにいらしたのは?
呉屋:1975年です。
Q:それはお料理で?
呉屋:そうです。フランス料理をやるために来ました。
Q:日本でもフランス料理をしていらした?
呉屋:少しだけ。2年ぐらい東京で。
Q:ご出身も東京ですか?
呉屋:東京の大井町です。
Q:競馬場のある渋いところ。
呉屋:(笑)そうそう。遊ぶ場所は全てあります。
Q:なぜフランス料理だったんでしょう?
呉屋:あの時代、1970年代のはじめというのは洋食で、フランス料理という感じではまだなかったです。で、勉強していてチーフや先輩からメニューをもらったりすると、フランス語と英語がまぜこぜのメニューだったんですよね。だから洋食、まだフランス料理なんて言っている時代ではなく、ホテルでの料理が主流だった時代です。でも自分はせっかくならフランスで、自分でできることを勉強したいと決めて来ちゃったんですね。
Q:幾つの時ですか?
呉屋:21の時です。
Q:その前に料理学校へ行ったとか?
呉屋:いや、行っていないです。普通にレストランで働いて。
Q:するとそもそも料理に興味を持たれたのはなぜですか?
呉屋:小さい時から食べることが好きで、ラーメン屋でもやりたいな、と小さい頃は思っていました。ずっと雇われるのが嫌で、最後は小さくても屋台でもいいから社長になろう、と小さい時からそう思っていました。
Q:それは家業とは関係なしに?
呉屋:関係ないです。普通のサラリーマン家庭でした。
Q:食べることが好きだった?
呉屋:まあグルメじゃなくて、昔ならラーメンとかオムライスとかね。小さいときはもしできたらサラリーマンじゃなくてラーメン屋など食べ物屋をしたいな、と思っていたんです。
Q:外へ食べに行くのが好きだった?ご馳走というか。
呉屋:ええ、まあ。うち男ばかりの3人兄弟で僕が末っ子なんですけれど、デパートの食堂でお子様ランチとかね、そういうのはもちろん嬉しかったですよ。当時はやっぱりデパートの屋上にある食堂ですか。そういうところに行っていた。あの時代は大井町にあった阪急でしたね。
Q:最初に勤めたのはホテルですか?
呉屋:いや、普通の町場のレストランです。
Q:どこですか?大井町?
呉屋:最初は横浜、第三京浜を下りたところにみさわ(三ツ沢)という大きなドライブインがあったんです。
Q:ドライブインという言葉、久しぶりに聞きました(笑)。そこで洋食を?
呉屋:そうです、最後は四谷のステーキハウスかな。そこで働きながら日仏(学院)に半年通いました。夜はアルバイトをして。
Q:飯田橋の日仏へ?
呉屋:はい。言葉が全然できないのはまずいんじゃないか、「ボンジュール」ぐらい言えなきゃいけないと思って。ダメだったら帰って来ればいい、とこちらに来ました。来た年の1974年にポンピドー(当時の大統領)が死んじゃって、ジスカールが大統領になったら海外からの移住はストップということになって、1975年には紙(ヴィザ)が簡単に取れなくなった。雇い主を探せばなんとかなったかもしれないんだけれど、自分は来たばかりで「難しいよ」と言われて、フランス料理店ではなくてパリで一番古い「たから」という日本料理店に行きました。偉大なシェフ、夏目さんという1930年代に大使館の料理長をしていた方が「たから」の常連で、彼が一筆書いてくれた紙を持って行ったところ「うち人が足りないからアルバイトしない?」と誘われて、アルバイトをしているうちに「紙を取ってあげるから」と言われて2年契約をして、紙をとってもらいました。
Q:紙というのは労働許可証?
呉屋:昔は労働許可証と滞在許可証が別々で、2枚ありました。店の方から申請してもらって先に労働許可証をもらって、滞在許可証は後からもらったのかな。
Q:当時の滞在許可証というのは何年出たんですか?
呉屋:1年です。そして更新して、次に3年をもらったのだと。
Q:私が聞いているのは1981年にミッテラン政権になったときに外国人へ滞在許可証が配られたとか。その時ではないんですね。
呉屋:僕は違う、その前にこちらに来ていますから。あの時は紙を持っていない人がたくさんいるから、ということでミッテラン政権になる前にこちらに来た人は申告しなさい、ということだったと思います。そういう人たちに1年の紙を出してあとはちゃんと働いていれば書き換えるということだったと。僕は3年の許可証をアルザスで2度更新して、そうして10年をもらったのはいつだったかな?とにかく3年の紙を2度は更新して、そのあと10年をもらったんだと思います。パリでマダム・ヴェルシニのオランプという、一時はテレビにも出ていた有名シェフの店でも働いて。
Q:Saint-Georges(サン=ジョルジュ)にあったオランプですか?
呉屋:あれは彼女が2軒目に開いた店ですね。前はモンパルナスでやっていました。あそこが最初の店です。彼女もまだ若くて、カウンターと数席しかないような店で一緒にやっていました。そこで僕は半年働きました。
Q:それはたからを辞めてからですか?
呉屋:そうです。
Q:でもフランス料理を目指して来て、いきなり日本食ということでのフラストレーションはありませんでしたか?
呉屋:いや、同じ料理だし、僕は駆け出しの若造だったんで和食でもフランス料理でもなんでも勉強になるから、特にあの頃はいい板前さんはみんな日本からきて、すべてを店で仕込んでいましたしね。いい勉強になり、今もそのことが役に立っています。オランプには、すでに働いていた日本の人が「呉屋くん、人が足りないから決まるまでうちでバイトしない?」と誘ってくれたので半年ほどいて、その間に田舎の店に手紙を出したら半年で決まったので田舎に行きました。
Q:アルザスですか?
呉屋:いや、最初はシャンパーニュ地方です。行った店の二番手がアルザス出身者で、自分はcommis(見習い)で、1年で契約を終えたときに二番手が「いいところを紹介する」とアルザスの店を紹介してくれました。
Q:アルザスはどこへ?
呉屋:ミューバックMurbachというところで、ゲブヴィレールGuebwillerってわかりますか?知らないか。アルザス地方の下の方です。
Q:コルマールの方ですか?
呉屋:その下の方です。Grand ballon とPetit ballonという山があって、その間の標高500mぐらいのところです。そこにとてもいいオーベルジュがあるんです。1つ星で、そこのオーナーは1960年ごろから日本人を雇っていました。スイスから、サヴォワ地方とかアルザスからも近いので、日本人が流れてきていたみたいです。僕が行ったときも数人いて、有名な人だとテタンジェで優勝した精養軒の堀田さんもいました。僕を紹介してくれたアルザス人の二番手もそこで修行中に日本人に教わったみたいです。常に日本人がいたらしくて、パトロンがすごくいい人だから行けばいい、と紹介してくれました。そこへ行って働いて1年したらパトロンが年だから引退してしまって、スイスからシェフが来て2年さらに働いたのかな。そしてストラスブールのAu Cocodileです。
Q:あの星を持っている。
呉屋:そうです。
Q:さっきRognon(子牛の腎臓)をいただいたときに、付け合わせのパスタが卵の入ったアルザスの生パスタだな、と思ったんです。なのでシェフはアルザスに所縁があるのかな、と思ったのでした。
呉屋:今は少なくしましたけれど、昔はアラカルトメニューの半分ぐらいがアルザス料理、残り半分は日本とアルザス料理でやっていました。寒い時、冬には魚のシュークルートも出していました。それからBaeckeoffベコフ(アルザスの伝統的な蒸し煮込み料理)もね。
Q:Au Cocodileには何年いたんですか?
呉屋:その前のSaint-Barnabé(今はホテル&スパ)には3年いて、ココディールには2年半ぐらいかな。そうしたらシャンパーニュの店のオーナーがちょうどココディールのオーナーに会いに来て「なんだ、ここにいたの」ということで、かつての二番手がシェフになったから戻ってこないか、という話になって、しかも条件もよかったのでシャンパーニュに戻って結局3年いました。なので1985年までまたシャンパーニュに。そうして1986年に、パレ・ロワイヤルからすぐのルーブル通り、今ピック(Anne-Sophie Pic)の店(La Dame de PIC)がある場所の隣にCapelineカプリーヌというお店を開きました。
Q:ご自身の店ですか?
呉屋:アソシエ(共同経営)です。そこを1990年までやって辞めて、この店を1992年にマダムと一緒に開きました。
Q:じゃあここへいらしてとても長い。
呉屋:26年になります。
Epicure 108
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アクセス : M° Malesherbes
月夜、土昼、日休 セットメニュー 32€(土曜除く) /38€