S子さん(74)は東京に生まれ、父は元左翼労働運動家だった。母は父との大恋愛で東京女子大英文科中退。日仏学院でフランス語を学び68年5月革命直前に船で、同学院で出会った彼は、67年公費留学生として来仏。パリで数年付き合った後別れる。
来仏1年後に一人息子を出産されたのですね。
彼に息子を認知してもらうために形だけの式を挙げ、私は空港送迎のバイトをしたり、69年末に大手日系商社に就職でき、31年間勤務しました。働くシングルマザーとして10区北の低家賃公営住宅HLMを、申請10年後に借りられました。サンマルタン運河は、子供時代に住んだ深川の下町を思い出させます。
その地区は多国籍の住民が多いでしょう。
アラブ人、アフリカ人、ジプシーだった人、それだけでなく高齢者の中には元レジスタンスを生きた人もいます。68年プラハの春後、亡命したチェコ人、軍政のアルゼンチンやチリから命がけで逃げてきた人たちにも出会いました。こうした人たちとのふれ合いと友情を息子と体験できたことは母子の大切な記憶として残っています。友人の弟、若い無名監督がチェコ亡命作家クンデラの作品を映画化することなく42 歳で亡くなり、それを忘れないために私は40歳でチェコ語とチェロを習い始めました。父はよく言ったものです、「お前は何の才能もないが、人と出会うことの名人だな」と。日本からの脱出は、左翼運動家でヒューマニストである父との対立から逃げ出し、私自身の人間性を見出したかったからだと思います。目と鼻の先に、元映画監督・脚本家J 氏が住んでいて、私の定年後、互いにパートナーとして、彼のガン闘病生活に付き添いましたが5年前に亡くなりました。68年 世代の高齢者が次々に他界していくのを見送っている私たちですが、孤独は避けられずとも真の出会いが残した思い出は永遠に失われるものではないと信じています。最近私が関心を寄せているのはアフリカ人の隣人たちです。そのなかにはシンガーや小説家もいます。こうした横のつながりを持てるのもパリの良さであり、祖先が生きた奴隷制からの縦の過去を背負うアフリカ人と出会えるのも、彼らの過去の歴史にふれる機会を与えてくれます。