『 アカシアの賛美歌』
著 コスィ・エフウィ Seuil 社
抗う女性たち。
コスィ・エフウィの5作目となる小説は、家父長制社会の中で、もがきながら生きる女性たちの人生を親子三代にわたって辿っている。予言者であり歴史の語り部として作品の重要な位置を占める祖母、グラス。未だ見ぬ子を待ち続ける娘、イオ=アンナ。そして河から拾い上げられ、まさしくモーセのように「神話的な」親子関係を結ぶ孫、ジョイス。この作品が、暴力にあふれた社会に抗う女性を描いた「フェミニスト小説」であることは、著者自身が認めるところだ。しかしその魅力はそこに尽きるものではない。
その背景にあるのは、著者の出身地であるトーゴを含めた西アフリカの歴史だ。作中で実在のものといえば国名のみではあるが、物語は現実に起きたことを否が応でも想起させる。2008年にアフリカをはじめ世界各地で食糧価格の高騰から起きた暴動、2011年にコートジボワールで起きた西アフリカ移民の虐殺、そして50年にもわたりトーゴの政権に居座り続けるニャシンベ親子…。
この国では今年、共和国憲法修正をめぐって反対派デモで死者を出すほど緊張した事態となっている。著者は一つの国や場所に自身のアイデンティティが結びつけられるのを嫌うが、その態度に呼応するように、登場人物たちはコートジボワール、ガーナ、トーゴと国境を越えて移動する。
歴史をいかに語るか。
とはいえもっとも驚嘆すべきは、数々の出来事を語るその著者の語り口のほうだ。もちろん、あらゆる小説は読者に向けて何かを語りかけるものではあるが、この作品は語ることそのものが作品の主要なテーマになっている点で、特異なものといえるだろう。
物語は時に歌うように、詩のように語られる。優れた劇作家でもあるエフウィの哲学は、例えば作中で繰り返される次のような言葉に見ることができる。
「全ての出来事は二つの道を通じて世界に到来する。諸事実の行きの道と、その事実が言葉、歌、寓話、物語、予言、ことわざ、預言、神話へと姿を変える帰りの道と。帰りの道がなければ、事実は、すでに現れたことがらと起こりうることがらとの間で、宙吊りとなった世界の中でさまようのだ」。
言い換えれば、歴史とはただ起きるのではなく、語られることによって初めて歴史となる。娘から祖母へ、そして祖母から孫へ。歴史の「記念」ではなく「生きられた経験」にこそ興味があると語るエフウィは、後者だけが、次の世代を行動へと駆り立てる血肉を持った歴史として引き継がれることを知っているのだ。だからこそジョイスは雑誌のジャーナリストとなり、自身が生まれたところの国家が過去に冒した罪を追求する者として働き、最終的には自らの身を死の危険にさらすにいたる。興味深いのは、この擬似的な死が、逆説的にも彼女に決定的な生きる力をもたらすところである。
歌と記憶
物語は、家族それぞれの複数の視点から語られる。それは連続した一つの物語というより、空白や欠落、それに繰り返しだらけの断片の寄せ集めだ。語られる順番も必ずしも時系列に沿ったものではない。しかし、人間の記憶とはそもそもそのように不確かで、不安定なものではないだろうか。だとすれば、一読して読みづらくさえある独特の調子と構成を持った文体は、小説という形をとった記憶の形の模倣なのかもしれない。
これは出来事をいかに語るか、という問いに繋がっている。女性たちが育った土地の伝統では、かつて彼女たちが胎盤を土に埋めてそこにアカシアの木を植えたのは、産まれた子が歌を好むようにするためだったという。そこでは歴史が歌となって引き継がれるのだ。エフウィは、土地に固有なこの伝統に属している。彼もまた、歌うように歴史を紡ぐことで、沈黙に声を与える作家なのである。(須)
1962年トーゴ生まれ。首都ロメの大学で哲学を修める。89年初の戯曲『十字路』を出版。劇作家として欧州でも著名であり、小説も高く評価される。80年代に学生運動に身を投じ、後にフランスに亡命。