6月16日付のリベラシオン紙は、ロジェ・ディアマンティスが78歳で亡くなったことを報じていた。彼は、1971年、カルチエラタンに、名画座系cinéma d’art et essaiの映画館〈Saint-André-des-Arts〉をつくった。
個人的な思い出だけれど、当時パリに着いたばかりのボクは、この映画館で初上映されたアラン・タネールの『サラマンドル』や『どうなってもシャルル』、ケン・ローチの『ケス』や『ファミリーライフ』、ヴィム・ヴェンダースの『都会のアリス』や『さすらい』を観ることができた。ヨーロッパ映画の「今」を代表する監督たちの、世界に開かれた、これまでとは違う人間関係を探ろうとする、自由な身振りを持った映像に感動したことが、きのうのことのようにあざやかに思い出される。『サラマンドル』は 1年間連続上映され、観客20万人を動員! 「この作品は、〈1968年5月〉から3年目、ちょうどよい時期に封切られたのです。現在でもアクチュアリティを持っている〈人種差別〉、〈労働〉といったシリアスなテーマを取り上げながら、ユーモアがあったから、館内に笑いがあふれていました」とディアマンティスは語っていた。
もう一つ個人的な思い出。1979年、ボクらは深作欣二の『仁義の墓場』の配給権を買い、パリで上映してくれる映画館を探していたがなかなか見つからない。そんな時、ディアマンティスは、試写のために無料で何度も彼の映画館を提供してくれ、各試写の度に館内の奥の席に座って熱心に目を凝らしていた。彼もここで上映するかどうか最後まで決心がつかなかったのだ。試写後、作品についての自身のコメントは一切なしで、ボクらを他の映画館の責任者や評論家に引き合わせてくれた。
ギリシャに生まれたディアマンティスは、小さい時に両親と共にパリに移住。父は理髪師、母はアパートの管理人だった。商才にたけていたディアマンティスはカルチエラタンに簡易レストランを開いて成功し、店数を増やしていった。その当時彼は、同じ街に住んでいたジャック・ラカンの精神分析を受けていたのだが、ある日その最中に、貯金をはたいて映画館をつくることを決心したという。37歳の時だった。
ディアマンティスは、世界の新しい映画の動きに極めて敏感、かつ映画館を100%所有しているという余裕もあり、他館では尻込みしそうな作品を次から次へと公開。〈Saint-André-des-Arts〉は映画ファンにとってカルチエラタンのシネマテーク的存在になった。大島渚の『愛のコリーダ』もここでロングランしている。
「もの悲しそうでいながらもき然としていたディアマンティスの死とともに、映画作家の権利を大切にした、職人的な映画館主という存在は蒸発してしまったといえるだろう」とリベラシオン紙は彼の死を悔やんだ。(真)