バルザックの小説には〈カトラン・ブルー〉、〈キャフェ・ド・パリ〉、〈キャフェ・アングレ〉など、当時活躍した芸術家や知識人、高級官僚など、社交界の花形が集まったレストランの様子が描かれている。
魚介類料理で有名な〈ロシェ・デュ・カンカル〉は、小説中に何度も登場し、作家自身も好んで通ったレストラン。『幻滅』では、田舎からパリにやってきて首都の華やかさにたじろぐ文学青年リュシアンが、このレストランの洗礼を受けている。愛人とパリに上京してきたものの、貧乏で経験もないリュシアンは、首都の贅沢な雰囲気にのまれて食事を楽しむどころではない。愛する女性に話しかけることさえままならず、力強くその手を握ることしかできない。「自分とは何の関わりもない人々の集団に茫然とし、この空想家は自分がずいぶんとちっぽけな存在になったような気がした。田舎である程度の敬意を払われ、一挙一動、自分の偉さの証明に出会うような人々は、自分の価値が急にとことん失われるという状態に慣れにくいものである」(野崎歓訳)
ところでこのレストランは1847年に移転したにもかかわらず、その後も同じ地でこの名前を冠して営業しているレストランがある。いつの時代もちゃっかり者はいるもの。本家の〈ロシェ・デュ・カンカル〉が引っ越しした途端、近くにレストランを持っていたペキューン氏が、これ幸いとそれまでの店名を有名店のそれにすりかえてしまったらしい。バルザックの作中に〈プチ・ロシェ・ドゥ・カンカル〉として登場するのはこちらのレストランのこと。今でも「プチ」の方は、昔のままレ・アールの近くに残っていて、気軽なビストロ料理が楽しめる。(さ)