Sさん (71歳)は1968年 、24歳の時、東京の語学学校で教えていたスイス人画家J.J. (当時34歳)と出会う。J.J. はパリ第7大学の日本文学教授になったが2年前に逝去。日スイスのカップル生活45年。彼の数奇な生涯を追ってみたい。
J.J.は自国で装飾美術を学び、結婚後ベトナム戦争時代にイタリア、ドイツ、NYへ行き、65年キューバに渡り、カストロの同時通訳もしました。最初の妻と離婚し、出国を望んでいたキューバ人の女性と周囲に押し切られる形で結婚。彼は単身スイスに帰国。彼女は2年間出国手続きに手間取りました。彼は68年に来日し語学学校で仏・英・スペイン語教師に。私は彼が結婚しているとは知らず、両親にも知らせず5年ほど歌舞伎町の彼の部屋に入り浸りの生活。サルトルとボーヴォワールの関係が私の理想でしたから。この時期に来日したキューバ人の妻に彼はローマ行きをすすめ日本滞在を諦めさせたようです。彼はバカロレアを取ってなかったので東京のリセ・フランセに登録し42歳でバックを首席で取得。私たちは73年に来仏。彼はパリ大学の日本語科に入り、3年後には臨時講師に。彼の専門はプロレタリア文学と日本演劇ですが開高健、谷崎、石川淳他、多くの作品を仏訳しました。大江健三郎著『さよなら、私の本よ』の訳と最後の著書『西洋の日本演劇発見』の出版を待たずに一昨年7月に逝去しました。私たちが正式に結婚し、郊外の一軒家に移ってから26年経っています。
未亡人としての生活、お気持ちは?
改めて驚いたのは、彼が死の1カ月前にコンピュータに郷里の新聞への死亡広告文や葬儀への招待者リストまで自分で用意していた彼の実務的な面です。遺灰は毎年夏を過ごしたスイスの山の岩の間に撒きました。私の遺灰も同様に山に撒いてもらおうと思います。子供がいないので、日本の家族に面倒をかけないように葬儀の全費用を葬儀屋に前払いしてあります。これからはパリにアパートを借りて暮らそうかと思っています。
彼の死後1年間は半身がもぎ取られたようで、水泳などで身体を鍛えようとしましたが、最終的には抗うつ剤に頼ることに。今も淋しさと不安感は深まるばかり。強いられた孤独の中で今も出る涙は自己憐憫の涙でしょう。この孤独を逆手にとって何かに集中できたらいいのですが。