人類遺伝学の高名な学者で、不法滞在の移民や、ひどい住宅事情に苦しむ人たちの支援に力を尽くしてきたアルベール・ジャカールが、9月11日、パリの自宅で87歳で亡くなった。
1990年から、〈Droit au logement 住まいを持つ権利〉という市民団体でジャカールと活動を続けてきたジャン=バティスト・エロー同協会会長は、「私たちにとって大きな喪失です。アルベールは光でした。87歳になっても、常にやる気十分でした。子供たちに、ホームレスたちに、希望を与えていました。わかりやすい言葉でわかりにくいメッセージを理解してもらうことがうまかった。目立ちたがらない人でしたが、集会でひとたびメガホンをとると、全員を引っ張っていくことができたのです」。彼は環境保護運動にも深く関わり、原発廃止、遺伝子組み換え作物反対などのデモの先頭に立った。エスペラント推進によって世界共通語が生まれることも彼の夢だった。「私の意向にもかかわらず、私は自分にとって他者だった。その後、他者たちのおかげで、私は自分以上になることができた」とジャカールは語っていたが、人の言葉に耳を傾け、その言葉が隠し持っている大切なことに気づくことがたくみだったという。
ところが彼は「私はひどい人間たちの側にいた。見て見ぬ振りをして、最終的に物事がなんとかなるのを待っている人間だったんだ」ともいう。
ジャカールは1925年12月23日リヨンで生まれる。両親とも熱心なカトリック教徒で父親はフランス銀行勤務。9歳の時に、彼の人生に大きな影響を与えることになる悲劇が訪れる。家族で乗っていた車がトラムウェイに衝突し、祖父母、末の弟が死亡。ジャカール自身、顔に重傷を負い手術を受けるが、顔は歪んだままとなる。「軽蔑されていたと思い込んでいた」と自分の殻に閉じこもりがちになる。学校の成績は終始優秀で、1948年にエリート校のエコール・ポリテクニークを卒業する。その後は高級官僚として、タバコ公社SEITAや保健省に勤務。同時に遺伝学でも成果を上げ、47歳で国家博士に。 その業績に対して、1980年にはレジオンドヌール勲章を授けられる。
そして専門の人類遺伝学をわかりやすく説いた『Eloge de la différence』など多数の著作を出版する。「(遺伝学的にいうと)私たちはそれぞれ異なっていて、(寿命とか知識に関して)平等の立場ではないが、そこには上下の関係はない。私たちは人類という、一つの類に属しているのだ。(…)私たちの豊かさは、私たちがいろいろと異なっているということに由来する」(真)