9月12日、ジャン=マルク・エロー首相とマルチーヌ・オーブリ社会党第一書記は、「次の第一書記にはアルレム・デジールというのが私たちの選択だ」という共同コミュニケを発表。こうした党幹部の一方的な決定に、内部から批判も多いが、10月の社会党大会の最終投票を待たずして、アルレム・デジールの社会党第一書記就任がほぼ確実だ。
どこかNY のハーレムを連想しがちな名前だが、1959年パリ生まれの生粋のフランス人。父親はマルチニーク島、母親はアルザス地方出身。
パリ大学で法律を学び、左派の学生運動組合UNEFに参加。そして1984年にはすでに、反人種差別の〈SOS Racisme〉協会会長に抜擢されたのは、持って生まれた政治力のたまものに違いない。〈イブ・サンローランYSL〉設立者で同協会の大スポンサーだったピエール・ベルジェは「アルレム・デジールは、人間の良心の、そしてフランスの栄誉の画期的な表れである」と誇大な賛辞を贈っている。
デジールは政治的なデモよりは、コンサートなどの催し物を通してさまざまな文化の混じり合いを強調する。デジールのアフロヘアーがマスコミを飾るにつれ、〈SOS Racisme〉の活動も知られていく。1987年、国営テレビ局での政治討論番組で、極右、国民戦線党のルペン前党首から「本名はアルレムでなくジャン・フィリップだ」と揶揄(やゆ)されたデジールは、身分証明証をカメラに突き出して、本名であることを確認させ、以来メディア界で「フランスを代表する若者」という扱いを受けることになる。「これまでの政治論争では一番きらいな思い出だが、両親からもらった名前を傷つけられたのだから、避けられなかった」と今でも彼の記憶には生々しい。
若者たちのシンボルになったデジールだが、1986年から1987年にかけて、リール市にあった〈移民の養成と教育〉協会での架空雇用で、月9千フランの収入を受けていたことが発覚してしまい、1988年12月、執行猶予付き禁固18カ月、罰金3万フランの刑を受けている。デジールは「若気のあやまちだった」と弁解するが、彼が社会党第一書記に選ばれることがほぼ確かになって以来、右派の格好の攻撃材料になっている。
1992年に〈SOS Racisme〉を離れてからエコロジー派に近づき、翌年の国民議会選挙で〈Génération écologie〉から立候補するが落選。直後に社会党に移り、党内の経済・社会問題委員会に加わる。1997年の国民議会選挙でも敗退したが、1999年の欧州議会選挙で社会党のリストに入り、初めての議員の座を得る。2004年、2009年と再選される。2008年にオーブリが社会党第一書記に選ばれた際に、彼女をアシストする社会党第二の要職に就く。
以前のアフロと違って、みごとに磨き上げられたはげ頭に流行の口ひげをたたえたデジール、至るところで分裂が吹き出す社会党を、どうやってまとめていくか、風当たりは強い。(真)