極右政党の国民戦線党(FN=現在の国民連合RN)の創設者のひとりで、反ユダヤ・外国人排斥の思想を公言し、たびたび物議を醸してきたジャン=マリ・ルペン氏が1月7日に死亡したと家族が明らかにした。享年96歳。11日に葬儀、16日には追悼ミサが執り行われた。
ルペン氏は1928年、ブルターニュ地方モルビアン県生まれ。パリ大学法学部の学生時代に反共右翼の学生組合から政治活動に入り、27歳で国民議会議員に。アルジェリア戦争従軍中には独立派を拷問した疑いがもたれている。1962年の総選挙敗北を受けて出版社を創立。ナチス・ドイツの歌のレコードを出すなどヒットラー政権を賛美した。72年に右翼活動家数人とともにFNを立ち上げたが、73年の総選挙では得票率はわずか1.32%。74年に初めて大統領選に出馬し、得票率は0.74%だったが、次第にメディアに登場するようになる。FNは83年のドルー市議会選を皮切りに、欧州議会選(84年/得票率11%)、総選挙(86年/35人当選)で票を伸ばし、88年と95年の大統領選ではルペン氏は14.38%、15%の得票率。ルペン氏とFNは、90年代に南仏の地域圏議会選、市議会選で議席を獲得し、とくに南仏で移民排斥、仏人優先の思想を広めていった。02年の大統領選ではジョスパン氏を退け決戦投票に進んだが、極右阻止運動によりシラク82%、ルペン18%と大敗。同年の総選挙でFNは無議席になり、80~90年代の勢いを失った。
ところが、2011年に娘マリーヌが党首になると、翌年の大統領選では3位の17.9%と健闘。市議会、県議会にも多数の議員を送り込み、17年、22年には大統領選の決選投票に進み、それぞれ34%、41%得票した。22年の総選挙では89議席、昨年の解散総選挙では125議席を獲得して議会の第3勢力にまで躍進し、ルペン父時代のFNとの違いを見せつけた。ルペン父には裁判沙汰も多かった。ヒットラーとナチス賛美により69年に執行猶予付き禁固2ヵ月、ホロコーストは歴史の「些末事」という87年の発言では反人道罪を平凡な出来事とした罪で罰金120万フランを課された。同様の発言はその後も繰り返され、2015年の時はマリーヌが父親のFN名誉党首職を停止。父が告訴して停止処分を撤回させたのに対し、娘は18年に党大会で名誉党首職の廃止を決め、国民連合(RN)と党名を変えた。ルペン父は反ユダヤ主義、アラブ人によるフランス征服の危機、ロマ人や同性愛者への差別発言などで憎悪、差別、人種差別を扇動した罪で計25~26件の有罪判決を受けたとされる。
そうした父娘の確執も近年では解消していたらしい。葬儀は家族・近親者のみでモルビアン県の教会で11日に行われたが、16日は一般の人も参加できる追悼ミサがパリ5区の教会で行われ、RN幹部、FN元幹部のほか、思想的に近いゼムール氏、シオティ氏らが参列したほか、多数の極右集団が教会前に集まった。一方で、7日にはパリ、リヨン、レンヌなど複数の都市でルペンの死を祝う人々が200~600人規模で集まった。
ルペン氏は死んでも彼の主張は今に生きている。問題発言を繰り返して政界から異端視されたルペン父の主張は、RNを普通の政党にしたいルペン娘の努力によりオブラートに包まれて耳に聞きやすくなり、国民の3~4割の賛同を得ている。父が撒いた極右ポピュリズムの種が、娘の代になって大きく花開いていった歴史をルペン父の人生は体現している。(し)